2013年9月8日日曜日

三国志 三国志演義 趙雲(4)


彼の意見には聞くべきものが沢山ありました。

「趙雲別伝」によれば、劉備が益州を平定した時に、成都の中の建物、城外の園囿、桑田を諸将に(恩賞として)分け与えよう、という議論があったのですが、彼は、まだ(劉備の軍、官僚は)平安を求めるような情勢でないし、天下が治まったら、それぞれ国へ帰って農業をすればよい。一方、益州の民衆は戦禍にあったばかりで(疲弊しているから)田畑、住宅はすべて返還してやるべき、といったことを具申しています。劉備はすぐにそれに従ったそうです。

呉が関羽を殺し、荊州を奪った時に劉備が大変怒り、孫権を撃とうとしました。
この時、趙雲は、国賊は曹操であって孫権ではない。魏を滅ぼせば呉はおのずと屈服する。早く関中をものにし、黄河、渭水の上流を根拠地として魏を討伐すれば、(魏の簒奪を憎む)関東の正義の志士は歓迎してはせ参じるであろう。魏をそのままにして呉と戦うのは不可。という主旨の論を建て、劉備を諌めています。
趙雲は非常に優れた大局観をもっていることがわかりますし、かつそれを興奮している君主に述べているところも偉いです。

この時、劉備は趙雲のいうことを聞き入れず東征し、陸遜率いる呉郡に大敗します。

過去に街亭の戦いで馬謖が大失敗した時、箕谷の軍は統制を乱すことなく撤退できました。それは趙雲が自ら後詰となり軍需品も器物も失わないように上手に撤退したからでした。諸葛亮がその軍需品の中の絹を趙雲の将兵に分けようとしたところ、負け戦で下賜はいりません、蔵に収め、十月に冬の支度品として下賜してください、と述べています。

彼は人格者でもあると思います。

最後に私が不審に思うところを述べます。
それは趙雲の序列、あるいは評価のことです。そもそも正史の蜀書で彼の伝があるのは「関張馬黄趙伝 第六」です。この五虎将の伝の中では黄忠より下に書かれています。関、張はおくとして、馬超、黄忠よりなぜあとに来るのでしょう。

また、後主伝第三の景耀三年、四年(蜀の年号ですが、正史の蜀書でも景耀という年号で年を数えています。西暦260, 261年)の記述によれば
三年秋九月、追諡故將軍關羽、張飛、馬超、龐統、黃忠。
四年春三月、追諡故將軍趙雲。冬十月、大赦。」
とあります。
つまり景耀三年に関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠に諡号(おくり名)が贈られ、翌年の景耀四年に趙雲に諡号が贈られているのです。
趙雲が景耀三年にはまだ生きていたということはありません。彼は建興七年(西暦229)に亡くなっています。さらに不思議なのは趙雲伝の方の書き方で、彼の死について
七年卒、追諡順平侯。」
とあるだけです。これだと(蜀の)
“建興七年に逝去し、順平侯という諡号が贈られた、”
ということです。これでは亡くなってすぐに諡号が贈られたみたいです。しかし後主伝をみればわかる通り、死後随分経ってからであり、しかも関羽以下の五人の翌年(正確にいえば六か月後)なのです。
なぜ趙雲だけが遅れるのでしょう。
三国志演義での彼の活躍は潤色されたものでしょうが、本物の趙雲も優れた将軍でありました。この趙雲の扱いはどうも理解できません。




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