2013年9月14日土曜日

三国志演義、三国志 蜀書 諸葛亮伝第五; 諸葛亮の友人(1)



諸葛亮の友人として正史の諸葛亮伝にまず出てくるのは崔州平と徐庶です。
「惟、博陵崔州平、潁川徐庶元直、與亮友善、謂爲信然。」
諸葛亮が自らを管仲、樂毅に擬していたのを、他の人は認めなかったけれど、崔州平と、徐庶、字元直は諸葛亮と親交があって、その通りと認めていたということです。

徐庶はまず劉備に仕えるのですが、正史ではなんで仕えるようになったかは書いてありません。
三国志演義では劉表を見限って立ち退いた徐庶が、司馬徽にさとされて劉備を訪れます。それが大道で歌を歌って劉備の気を引いて声をかけてもらうのです。(第三十五回)
その歌とは以下のようなものです。

天地反覆兮、火欲殂。(天地反覆(クツガエリ)テ、火(漢)ハ殂(ホロビント)欲ス)
大廈將崩兮、一木難扶。(大廈ノ将ニ崩レントスルヤ、一木デハ扶(ササ)エ難シ)
山谷有賢兮、欲投明主。(山谷ニ賢アリテ、明主ニ投ゼント欲ス)
明主求賢兮、却不知吾。(明主賢ヲ求ムレドモ、却ッテ吾ヲ知ラズ)

なんとまあ、直接的就職運動でしょう。

正史では事情は分かりませんが、徐庶は劉備から有能な人物と認められ、仕えるようになります。その徐庶が諸葛亮は臥龍だと言って推薦します。
劉備は、徐庶に連れて来てくれとたのみますが、無理に連れてこられるような人ではない、とこちらから訪問することを勧めます。そして有名な劉備の三顧の礼、孔明の天下三分の計を説く話に繋がって行きます。

徐庶は後に当陽の戦いの時に母が曹操軍の捕虜となり、やむを得ず劉備と別れて曹操に仕えるようになります。劉備は度量のある人間ですから、それを許しています。
徐庶はその後本気で曹操を輔佐しようと思ったのか、生活のためやむを得ず仕えていたのかはわかりません。

「魏略」には別の話が書いてあり、正史の裴松之註で引用されています。すなわち、
「遂與同郡石韜相親愛。初平中、中州兵起、乃與韜南客荊州、到、又與諸葛亮特相善。及荊州附、孔明與劉備相隨去、福與韜俱來北。」
です。井波さんの訳によれば、
“かくて同郷の石韜と親しく交際するようになった。初平年間、中原で戦争がおこったので、石韜とつれだって南方荊州に旅し、到着すると、さらに諸葛亮と特に親しくなった。荊州が曹操になびくと、諸葛亮は劉備とともに去ったが、徐福(徐庶)は石韜と一緒に北へ来た。”
となります。
これだと、徐庶は劉備に仕えていません。(もし仕えていたとしたら誠意のない臣下になります。)石韜と一緒に勢力の固まり安定しつつある北へ行って就職したことになります。
これは諸葛亮の態度とは大いに異なります。正史での諸葛亮の劉備に説いた三分の計の最後の言葉は
「誠如是則霸業可成、漢室可興矣」
です。井波さんの訳によれば
“まことにこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう”
です。漢朝の復興事業をしようと考えているのです。また、諸葛亮は劉備に説くなかで劉備を褒めて
「將軍、既帝室之冑、信義著於四海、總攬英雄、思賢如渴。」
“将軍は、皇室の後裔である上、信義が天下に聞こえわたり、英雄たちを掌握されて、のどの渇いた者が水をほしがるように賢者を渇望しておられます。”
と言っています。そのような人柄の人を諸葛亮は望んでいたわけです。彼は漢室の忠臣として、漢室を復興させたい思いがあり、人格も立派である人を支えて力を尽くしたかったことになります。

石韜はのちに郡守、典農校尉を歴任し、徐庶は右中郎将、御史中丞にまで登ります。諸葛亮がもらした感想は
「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」
“魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか?”
です。つまり慨嘆しております。
人の立身出世などは運不運もありますが、この二人は諸葛亮ほどには強い志は感じられません。






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