2013年9月19日木曜日

三国志演義、三国志 蜀書 諸葛亮伝第五; 諸葛亮の友人(2)



さて、三国志演義では第三十七回で劉備を訪れた司馬徽が、孔明と崔州平、石広元、孟公威、徐元直が親友だったと話します。いずれも実在の人です。崔州平は仕官しなかったようですが、その他の三人は前回書いたように仕官しています。したがって崔州平以外の人は、諸葛亮も含めて世捨て人ではなく、学問をして仕官し、志を遂げようとしていた訳です。

ところで、三国志の中で石広元と、孟公威が田舎の居酒屋で歌をうたう場面は勿論虚構ですが、作り話にせよこの二つの歌は両人の本心とあっていないようです。
一人目が(上座の人が先にうたったと考えるなら石広元)

壯士功名尚未成、(壮士巧妙尚未ダナラズ)
嗚呼久不遇陽春。(嗚呼、久シク陽春ニ遇ハザリキ)
君不見、東海老叟辭荊榛、(君見ズヤ、東海ノ老叟ガ荊榛ヲ辞(サ)リテ)
後車遂與文王親。(後車(ニ乗リテ)遂ニ文王ト親シメルヲ)
八百諸侯不期會、(八百ノ諸侯、期セズシテ会シ)
白魚入舟涉孟津。(白魚、舟ニ入ッテ孟津ヲ渉リシコトヲ)
牧野一戰血流杵、(牧野ノ一戦ニ血ハ杵(武器)ヲ流シ)
鷹揚偉烈冠武臣。(鷹ノゴトク揚ガレルオオイナルイサオシハ武臣ニ冠タルオ)
又不見、高陽酒徒起草中、(又見ズヤ、高陽ノ酒徒ガ草中ヨリ起(タ)チ)
長揖芒碭隆準公。(芒碭ノ隆準公ニ長揖セシコトヲ)
高談王霸驚人耳、(王霸ヲ高談シテ人ノ耳ヲ驚カシ)
輟洗延坐欽英風。((足)洗フヲ輟(ヤ)メテ坐ニ延(ヒ)キ英風ヲ欽(シタ)イシヲ)
東下齊城七十二、(東ノカタ齊ノ城ヲ下スコト七十二)
天下無人能繼蹤。(天下ニ人ノ能ク蹤(アト)ヲ繼グモノナシ)
兩人非際聖天子、(両人ノ聖天子ニ際(ア)イシニ非ズンバ)
至今誰復識英雄?(今ニ至ルマデ、誰カ復(マ)タ英雄ヲ識(シ)ランヤ)

この歌は太公望が周の文王に巡りあい、その後武王の代に殷の紂王を征伐する手柄を立てたことを言い、次に、酈食其(レキイキ)が漢の高祖に遇って、高祖が足を女に洗わせていた非礼をなじり、詫びさせたこと。その後、酈食其は高祖のために斉の王を説いて七十余の城を高祖に献ぜしめたことを言っています。
でも兩人非際聖天子、至今誰復識英雄?というのは、なにを言いたかったのでしょう、もし二人(太公望と酈食其)が英明な天子に会わなかったならば、誰がこの二人を英雄を知る事があろうか、つまり運よく有能な天子がいて、使ってくれなかったらどうにもならなかっただろうに、ということなのでしょうか?

蛇足ですが、岩波文庫の小川環樹さんの訳では「東下齊城七十二」で戦国時代の楽毅が斉の城を五年間で七十余も落としたことを引用しています。しかしここは太公望と酈食其と二人の話をしているのだから、酈食其が斉王を説いた話が本筋で、楽毅の引用は間違いと思います。

次に一行の文が入って
「歌罷、又有一人擊桌而歌。其歌曰、」(歌い終わって、また一人(つまり二人目の男、孟公威?)が卓を敲いて歌う。その歌は)
と二人目が歌う内容が書かれます。

吾皇提劍淸寰海、(吾ガ皇ノ劍ヲ提(サ)ゲテ寰海(天下)ヲ淸メシヨリ)
創業垂基四百載。(業ヲ創メ、基ヲ垂ルルコト四百載)
桓靈季業火德衰、(桓・靈ノ季業(スエツカタ)ヨリ火德ハ衰ヘ)
奸臣賊子調鼎鼐。(奸臣賊子 鼎鼐(テイダイ)ヲ調(トトノ)フ)
靑蛇飛下御座傍、(靑蛇 飛ンデ下ル御座(ミクライ)ノ傍(カタハラ))
又見妖虹降玉堂。(又見ル 妖シキ虹ノ玉堂ニ降リシヲ)
羣盜四方如蟻聚、(羣盜ハ四方ニ蟻ノ如ク聚(アツマ)リ)
奸雄百輩皆鷹揚。(奸雄 百輩 皆 鷹ノゴトク揚(アガ)レリ)
吾儕長嘯空拍手、(吾儕(ワガトモガラ)大イニ嘯(ウソブ)キ空シク手ヲ拍ッテ)
悶來村店飮村酒。(悶來タラバ村店ニ村酒(イナカザケ)ヲ飮ム)
獨善其身盡日安。(獨リ其身ヲ善ニスレバ盡日(ヒネモス)安ラカナリ)
何須千古名不朽?(何ゾ須ヰンヤ千古ニ名ノ朽チザルヲ)

これはシンプルです。高祖が天下を統一し、四百年、桓帝、霊帝の代になって漢は衰え、悪い奴がのさばり始めた。でも自分達は手拍子で歌を歌い、酒をのみ、我が身を善に保てば満足、名を残す気などない、という世捨て人の歌です。齷齪と世の人に混じって出世競争などしない、というのです。

さりながらこの二つの歌はなんとなく精神的雰囲気は高雅で、天下国家を先に考えて我が身の利害損得など顧みず、という姿勢が窺われます。
こんな感じで世を見ている風流な人が今の日本でもおられれば会いたいものですね。





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