前回「糜夫人なる女性は正史には出てきません。」と書いてしまいましたが、その理由は、二主妃子伝第四に出てこないのと、ほか場所に出てきた記憶もなかったからです。しかし、間違いでした。許糜孫簡伊秦伝第八の糜竺伝に
「呂布乘先主之出拒袁術、襲下邳、虜先主妻子。先主轉軍廣陵海西、竺於是進妹於先主爲夫人、……」
とありました。井波さんの訳では
“呂布は先主が袁術防御に出撃した隙につけこみ、下邳を襲撃し、先主の妻子を捕虜にした。先主は郡を広陵郡の海西に移動させた。麋竺はそのとき妹を先主の夫人として差し上げ……”
とあります。
なんのことはない劉備の妻子が呂布の捕虜になった時にとりあえず代わりに差し上げた、みたいな記述です。しかしとにかく糜夫人なる人がいたことは確かです。しかし当陽長阪の場面には出てきません。
なんのことはない劉備の妻子が呂布の捕虜になった時にとりあえず代わりに差し上げた、みたいな記述です。しかしとにかく糜夫人なる人がいたことは確かです。しかし当陽長阪の場面には出てきません。
さて本題に戻って、趙雲は公孫賛のところに義勇兵を率いて参加したときに、そこに身を寄せていた劉備と出会います。劉備は趙雲を高く評価してつきあったと言います。
趙雲には何か人格的に惹かれるところがあったのでしょう。逆に趙雲も劉備に惹かれました。ウマがあい、お互い尊敬するところがあったのでしょう。
公孫賛のところから兄の喪により立ち去った趙雲は、のちに袁紹の所に身を寄せていた劉備に目通りしています。当時の劉備たるや袁紹の(あまり信用されない)客将です。そこの下にわざわざ行くとは趙雲はよほど劉備をかっていたとしか思われません。あとで例を挙げて行きますが、趙雲は人格者で見識が高い人なのです。このような人にほれ込まれるとは劉備にも人間として大きな魅力があったのだと思います。
まず、「趙雲別伝」によれば、趙雲は夏候惇との博望での交戦で、夏候蘭を生け捕りにしています。同郷の幼馴染なので先主に申し上げて命をたすけ、法律に詳しいものとして推薦し軍正にしました。趙雲は義理人情に篤いです。しかし、そうして助けたあと、趙雲は自分から夏候蘭に近づくことはしなかったそうです。固すぎるくらいです。
子分を作ろう、あるいは変な派閥を作ろうなどという気は一切なかったのです。ストイックさえいえます。
子分を作ろう、あるいは変な派閥を作ろうなどという気は一切なかったのです。ストイックさえいえます。
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