2013年9月1日日曜日

三国志 三国志演義 趙雲(1)



最近たまたま知った中国人と三国志の話になった時、三国志の人物の中では趙雲が好きだ、と言っていました。

三国志演義の趙雲像といえばなんといっても目立つのは、第四十一回 劉玄德攜民渡江 趙子龍單騎救主(劉玄徳民をたずさえて、江を渡り、趙子龍単騎にして主を救う)のところでの活躍だと思います。
劉備は三千あまりの兵と、荷物を持った十万あまりの農民を連れ、曹操の軍の追撃を知りつつも早い移動ができず、のろのろと逃げます。曹操の鉄騎兵(どのような騎兵なのでしょうか。)五千が急追してきます。そして当陽の景山で曹操の軍に追いつかれます。ここで劉備はとりあえず二千の兵で防戦します。しかし、曹操軍にまったく蹂躙されます。

趙雲は劉備の家族二十人あまりを保護していたのですが、その中に甘夫人、糜(ビ)夫人、阿斗(劉備の子、劉禅)もいました。その家族たちと趙雲は乱軍で別れ別れになってしまいました。その場は曹操軍の略奪、虐殺の修羅場になってしまうのですが、その中に趙雲は部下三、四十人を率いて突き入り、簡雍をたすけて部下に劉備のところに届けさせ、糜竺(ビジク)を救出し、甘夫人も助け、甘夫人と麋竺を張飛のいる長坂坡まで届けます。

そして再び糜夫人と阿斗を探しに数人の騎兵とともに敵軍に突き入ります。しばし戦ううちに単騎になりますが、そのまま進み、火に焼かれた民家の崩れた土塀の中に、足を槍で突かれて動けなくなっている糜夫人と阿斗を見つけます。糜夫人は阿斗を趙雲に託して井戸に身を投げてしまいます。
趙雲は土塀をくずして井戸を埋め、鎧の胸当てを外して阿斗を抱き、ふたたび馬上の人となり、はむかう敵を斬りながら長坂坡を目指します。曹操が景山の頂上からみて乱軍の中を切り立てる猛将を見て、名前を曹洪に名を問わせます。その上、遠くから射殺さず、生け捕りにせよ、と命令します。
そのおかげで、趙雲は圧倒的な数の敵軍の中を切り抜け長坂坡まで戻れます。この間に曹操の名のある大将を五十人斬ったといいます。
まさに超人の働きです。 

正史の 記述はもっと簡略です。
関張馬黄趙伝第六の趙雲伝によれば、
及先主爲曹公所追於當陽長阪、棄妻子南走。雲、身抱弱子、卽後主也。保護甘夫人、卽後主母也。皆得免難。」
となります。井波さんの訳によれば(以下すべて井波さん訳です。) 
”先主が曹公により当陽県の長阪(正史では長坂ではなく長阪になっています。)まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。すなわち後主である。甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。[おかげで]どちらも危難を免れることができた。”
となっています。演義にかかれたような大活躍はしていません。趙雲の慎重な性格から、危険の少ない方へ上手に逃げたことさえ窺わせます。
ついでですが糜夫人なる女性は正史には出てきません。

 先主伝第二では以下のような記述です。
乃釋輜重、輕軍到襄陽。聞先主已過、曹公將精騎五千急追之、一日一夜行三百餘里、及於當陽之長坂。先主、棄妻子、與諸葛亮張飛趙雲等數十騎走。」
です。すなわち
”輜重を後方に放置し、身軽になった軍勢で襄陽に到達した。先主がすでに襄陽を通過したと聞いた曹公は精鋭の騎兵五千を引き連れて急いで追撃し、一昼夜に三百余里の行程を馳けて、当陽の長阪(橋)で追いついた。先主が妻子を棄て諸葛亮、張飛、趙雲ら数十騎とともに逃走した...”
です。これでは趙雲は特別活躍しないどころか、そもそも妻子がどうなったのかもわかりません。

後主伝第三(劉禅の伝)では当陽長阪で後主が趙雲に助けられたことは何も出てきません。

二主妃子伝第四の、甘皇后伝では以下の通りです。
「随先主於荊州、産後主、値曹公軍至、追及先主、於陽長阪。于時困偪、棄后及後主、賴趙雲保護、得免於難。」
となっています。すなわち
”先主に従って荊州におもむき、後主を生んだ。曹公の軍勢が到着して、先主を追撃し当陽の長阪で追いついた。そのとき、先主は追いつめられて、后(甘夫人)と後主をおきざりにし、趙雲に護衛を頼んでやっと難を免れた。”
です。
妻子を棄てたと表現しながら、趙雲に護衛を頼んでいると書いてあるので戸惑います。趙雲伝と甘皇后伝を合わせると、趙雲は先主の妻子の保護を頼まれ、敵に蹂躙される苦しい戦いの中でその責任を全うした、ということになると思います。

彼が危急存亡の時でも、その困難を切り抜ける才覚と勇気をもった優秀な人材であろうことは推察されます。さもなければ劉備も頼んだりしなかったでしょう。

さりながら、演義の趙雲の当陽長坂での話は荒唐無稽で創作なのでしょうね。






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