2019年6月17日月曜日

論語(31); -君子と小人(xi)-


堯曰第二十の3では君子について以下の記述があります。これが論語の最後の文です。即ち、
「子曰、不知命,無以為君子也。不知禮,無以立也。不知言,無以知人也。」
君子の君子たるゆえんは命(天命)を知り、礼を知り、言を知っていることである、というのです。金谷治さんの本では普通の訳で特に説明もないですが、吉田賢抗さん、宇野哲人さんの訳は訳というよりは解説のような記述になっています。長くなるので堯曰第二十の3については分割して書きます。

知命の部分について、吉田さんの通訳によれば、
“天の偉大な力が万物を創造し、それにそうあるべき道理を与えたのが天命である。人は天命を知る事により、自分が天からうけたものを行いつくし、自分ではいかんとも出来ない窮達の命に対しては、信じ安んずる心構えができる。このようにまず人事を尽くしても逆境に在った場合は、天をとがめず、人を怨まず道を行うことを楽しんで安んずることができなくて、どうして君子といえようや。”
となります。
この部分は宇野さんの通釈によれば、
“人には吉凶禍福がある。これが命である。人が生まれた初めにうけたもので人の力ではいかんともすることのできないものである。人は命を知ってこれを信じ安んずれば利害に臨んでも心を動かすことがなくて、君子として愧ずかしくないのである。もし命を知ってこれに安んじなければ、害を見てはこれを避け、利をみてはこれに趨くのである。これは万一の幸いを求め苟も免れようとする小人である。どうして君子と言われようか。”
となります。

人生運不運はあるものだから仕方がない、というだけなら月並みな話ですが、それを命として受け止めて見苦しい振る舞いをしない、というのが君子だというのは、なるほどと思わせるものです。

次に知礼の部分については、吉田さんによれば、
“礼は実に人類文化の象徴である。礼を知らないと進退の宜しきは得られず、品位は保てず、立派な文化人としての行動ができない。どうして君子ということができようや。”
となり、宇野さんによれば、
“礼は己の身を取り締まるものである。人は礼を知ってこれを守れば徳性が堅く定まって自ら立つことができる。もし礼を知ってこれを守らなければ耳目も手足も拠るべき標準を失って外物の為にうごかし惑わされる。どうして自らたつことが出来よう。”
となります。
しかし、どちらの解釈でも今一つ分かりません。むしろ人間関係を円滑にし、社会秩序を維持する規範としての礼を知らないのは君子ではない、と言ってくれれば分かりやすいのですが





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2019年6月3日月曜日

論語(30); -君子と小人(x)-


さて孔子は、子張が一番目の美の「惠而不費」とはどういうことですか、と質問したのに対し五美すべてについて説明しています。
「因民之所利而利之,斯不亦惠而不費乎?擇可勞而勞之,又誰怨?欲仁而得仁,又焉貪?君子無眾寡,無小大,無敢慢,斯不亦泰而不驕乎?君子正其衣冠,尊其瞻視,儼然人望而畏之,斯不亦威而不猛乎?」

ここは金谷治さんの訳では
“人民が利益としていることをそのままにして利益に得させる、これこそ恵んでも費用をかけないということではなかろうか、自分で骨を折るべきことを選んでそれに骨折るのだから、一体だれを怨むことがあろう。仁を求めて仁を得るのだから、一体何を貪ることがあろう。上に立つ者が(相手)の大勢小勢や貴賤にかかわりなく決して侮らない。これこそゆったりしていても高ぶらないことではなかろうか。上に立つものがその服や冠を整え、その目のつけかたを重々しくして、いかにもおごそかにしていると、人々はうちながめて恐れ入る、これこそ威厳があっても烈しくないことではなかろうか。”
となっています。

これに対して吉田賢抗さんの訳では
“民が自分たちの利となると思うことによって民に利を与えていく。つまり民が農業開発とか山林開発を利とするなら、それに都合のよいような政治をすれば、これが恵にして費やさずということになるではないか。人民を使役するだけの理由が十分ある事柄で民に骨折らせれば、人民は喜んで働いて誰も怨むことがない。たとえば、水害に苦しむ民に、水防工事をさせたら、誰を怨むことがあろうや。又君子の欲するところが正しい道であって、仁なら仁道を得たいと欲したら、伯夷と叔斉が仁を求めて仁を得たように、民心が仁道に向かって作興されれば、これ以上何をむさぼる必要があろうか。又君子は相手が大勢でも小人数でも、事が大きくても小さくても、かかわりなく、又相手をあなどり馬鹿にすることなく、常にゆったりとして、しかも謙虚だから、これはまた泰にして驕らずということではないか。又君子は衣冠を正しく身につけ、目のつけどころに心を用いてキョロキョロしないから、その容子が厳然となって、人が望み見て、おのずから畏敬の念を生じる。これが威あって猛からずということではなかろうか。以上のことが五美というものである”
となります。かなり丁寧に意訳されている感じです。

これらに対して宇野哲人さんの訳では
“山や水には自然物が算出する。これは民の利となるものである。これらの民の利となる物について適当な制度を設けて民の利として饑寒を免れさせるようにすれば、これは恵みを与えても己の財が費えないのではないか。民を使うにあたっては国利民福を増進しかつ民が労働に堪えるような仕事を択んで民を労働させるならば民は歓んでこれに服してまた誰を怨むことがあろう。己の仁徳を天下に及ぼすことを欲してその仁徳を尽くすことができたのであって、民から一毫も取るのではないから、どうしてまた貪るいわれよう。君子は人の衆寡、事の大小を論ぜず、敬を主として敢えて慢(あなど)ることがない。これはまた泰然自得して驕り肆(ほしいまま)ではないではないか。君子は身に著つける衣や冠を端正にし、外にあらわれる瞻視の容(物をみる様子)を尊びつつしみ、身を持つこときびしくて、人が望み見て畏敬するのである。これは威厳があってあらあらしくないのではないか。“
となります。さらに意訳が進んでいます。

結局“五美”のどこが分かりにくいかというと、子張が質問した「惠而不費」という表現なのだと思います。他は特別目立つ言とは思えません。
元来政治をするものが個人の財産をつかって福祉をしろ、というのは普通は無理な話ですから、恵みを与えるというのは施策を通じてであり、施策の中身は説明によれば農業や手工業を奨励し盛んにすることになのでしょう。そうなると、費えがない、というのは個人の財ではなくて政府の支出と考えるのが自然に見えます。そしてそういうことで納得すると、この説明全体が大した内容でない気がしてくるのがちょっと残念です。






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