2019年6月3日月曜日

論語(30); -君子と小人(x)-


さて孔子は、子張が一番目の美の「惠而不費」とはどういうことですか、と質問したのに対し五美すべてについて説明しています。
「因民之所利而利之,斯不亦惠而不費乎?擇可勞而勞之,又誰怨?欲仁而得仁,又焉貪?君子無眾寡,無小大,無敢慢,斯不亦泰而不驕乎?君子正其衣冠,尊其瞻視,儼然人望而畏之,斯不亦威而不猛乎?」

ここは金谷治さんの訳では
“人民が利益としていることをそのままにして利益に得させる、これこそ恵んでも費用をかけないということではなかろうか、自分で骨を折るべきことを選んでそれに骨折るのだから、一体だれを怨むことがあろう。仁を求めて仁を得るのだから、一体何を貪ることがあろう。上に立つ者が(相手)の大勢小勢や貴賤にかかわりなく決して侮らない。これこそゆったりしていても高ぶらないことではなかろうか。上に立つものがその服や冠を整え、その目のつけかたを重々しくして、いかにもおごそかにしていると、人々はうちながめて恐れ入る、これこそ威厳があっても烈しくないことではなかろうか。”
となっています。

これに対して吉田賢抗さんの訳では
“民が自分たちの利となると思うことによって民に利を与えていく。つまり民が農業開発とか山林開発を利とするなら、それに都合のよいような政治をすれば、これが恵にして費やさずということになるではないか。人民を使役するだけの理由が十分ある事柄で民に骨折らせれば、人民は喜んで働いて誰も怨むことがない。たとえば、水害に苦しむ民に、水防工事をさせたら、誰を怨むことがあろうや。又君子の欲するところが正しい道であって、仁なら仁道を得たいと欲したら、伯夷と叔斉が仁を求めて仁を得たように、民心が仁道に向かって作興されれば、これ以上何をむさぼる必要があろうか。又君子は相手が大勢でも小人数でも、事が大きくても小さくても、かかわりなく、又相手をあなどり馬鹿にすることなく、常にゆったりとして、しかも謙虚だから、これはまた泰にして驕らずということではないか。又君子は衣冠を正しく身につけ、目のつけどころに心を用いてキョロキョロしないから、その容子が厳然となって、人が望み見て、おのずから畏敬の念を生じる。これが威あって猛からずということではなかろうか。以上のことが五美というものである”
となります。かなり丁寧に意訳されている感じです。

これらに対して宇野哲人さんの訳では
“山や水には自然物が算出する。これは民の利となるものである。これらの民の利となる物について適当な制度を設けて民の利として饑寒を免れさせるようにすれば、これは恵みを与えても己の財が費えないのではないか。民を使うにあたっては国利民福を増進しかつ民が労働に堪えるような仕事を択んで民を労働させるならば民は歓んでこれに服してまた誰を怨むことがあろう。己の仁徳を天下に及ぼすことを欲してその仁徳を尽くすことができたのであって、民から一毫も取るのではないから、どうしてまた貪るいわれよう。君子は人の衆寡、事の大小を論ぜず、敬を主として敢えて慢(あなど)ることがない。これはまた泰然自得して驕り肆(ほしいまま)ではないではないか。君子は身に著つける衣や冠を端正にし、外にあらわれる瞻視の容(物をみる様子)を尊びつつしみ、身を持つこときびしくて、人が望み見て畏敬するのである。これは威厳があってあらあらしくないのではないか。“
となります。さらに意訳が進んでいます。

結局“五美”のどこが分かりにくいかというと、子張が質問した「惠而不費」という表現なのだと思います。他は特別目立つ言とは思えません。
元来政治をするものが個人の財産をつかって福祉をしろ、というのは普通は無理な話ですから、恵みを与えるというのは施策を通じてであり、施策の中身は説明によれば農業や手工業を奨励し盛んにすることになのでしょう。そうなると、費えがない、というのは個人の財ではなくて政府の支出と考えるのが自然に見えます。そしてそういうことで納得すると、この説明全体が大した内容でない気がしてくるのがちょっと残念です。






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