2022年5月1日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(12) -鉤弋夫人-

 鉤弋夫人は趙姓でのちに倢伃(ショウヨ)の位を授かったので鉤弋趙倢予とも書かれたりします。武帝が狩猟に出て河間国に至った時、雲気を見て吉凶を占う者が奇女がいると進言したそうです。奇女とはどんな女かというと、両手が拳を握ったまま披(ひら)けないという女でした。多分美人なのでしょう。そして武帝がその女に会い、みずから披いてやると指がその場で伸びて手が披いたそうです。その結果武帝の寵愛を受けるようになりました。漢書にはそのように書いてありますが、これはちょっと出来すぎで、美人の娘を持った親の仕組んだ伝説づくりかと邪推してしまいます。鉤弋夫人は、弗を産んでいます。武帝はこの子(のちの昭帝)に期待し、後継者にしようと考えます。鉤弋夫人はそれで幸せになったか、というとそうはなりませんでした。

鉤弋婕妤從幸甘泉,有過見譴,以憂死,因葬雲陽」

との記述があります。小竹さんの訳によれば

“鉤弋婕伃は甘泉宮の行幸に従うたとき、過失があって(とが)めをうけた。そのため憂死し、よって雲陽に葬られた。”

とあります。あまりはっきりとは書いてありませんが、鉤弋夫人は些細な理由で死を賜ったようです。

死を賜った理由はのちの北魏で行われた「子貴母死制」と類似の考え方によると言う人もいます。この制度は嫡子が決まればその生母は殺される、というとんでもないものです。外戚がはびこることを防ぐ意味があったようです。しかし武帝の場合については鉤弋夫人が帝の後見になり専横のふるまいをするのを心配し、後々の問題を避けるために鉤弋婕伃を殺したという解釈になります。なお死を賜ったことについて別の説明もあります。歴史書ではないですが、晋の干宝の捜神記(東洋文庫 竹田晃・訳)に鉤弋夫人の項があり、これに鉤弋夫人は罪を犯して死刑に処せられたとあります。そして捜神記(東洋文庫)の竹田さんのこの部分の注には、専横を極めて武帝から死を賜った、とあります。

さて武帝が病に伏した時、上に述べた鉤弋夫人の生んだ弗が皇太子に立てられ、武帝崩御の後、皇帝として即位します。

(昭帝)が即位したので、母親である鉤弋夫人を追尊して皇太后としています。なお鉤弋夫人の父は法を犯して宮刑に処せられていましたが、追尊して順成侯とされました。しかし趙氏(鉤弋夫人の実家)から官位に就く者はいなかったそうです。皇帝の母の親戚であれば、大いに活躍できる地位につける機会はあったはずですが、その機会を掴んで力を振う人がいなかったようです。

先に書いた衛氏の一族は優秀でかつ野心もある人材が豊富でしたが、これとは対照的です。


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