2015年8月31日月曜日

史記 呂后本紀 第九(7)



呂后は着々と呂氏の勢力を伸ばします。そして建国の重臣たちの保身も呂后の専権を助けます。

恵帝が死んだとき、張良の子供である張辟彊が陳平に説きます。「恵帝が死んだとき、呂后は泣くことは泣かれましたが、悲しんではおられません。恵帝には成人した子供(=後継者)がなく、呂后は大臣が権力を専らにするのではないかと恐れているからです。今、呂台、呂産、呂禄らを将軍に任命し、南北軍におらせ、呂氏一族が皆宮中にはいって政務にたずさわるようにと請願されませ。そうすれば太后は安心され、あなた方(重臣たち)は禍を逃れることができましょう。」
この策は呂氏一族の専横を招くもとです。バカだったら権力をにぎれば国家の運営に支障をきたすし、能力があったら簒奪者になる可能性があります。陳平たちのやったことはほんの目の先の保身だけです。一旦権力を呂氏一門に持たれてしまったら、彼らのうちの誰かに嫌われたらそこでもまた命が危なくなります。
それでも目の先の危険を避けて陳平は張辟彊の献策を容れます。

さらに呂后は呂氏一族のものを立てて王にしようとします。この時も王陵という者が逆らったにもかかわらず、陳平、周勃は賛成して通してしまいます。王陵が陳平、周勃を詰ると、彼らは次のセリフを吐きます。
「於今面折廷爭,臣不如君;夫全社稷,定劉氏之後,君亦不如臣。」
野口定男さんの訳にしたがえば
“現在面と向かって欠点を指摘し、朝廷において諌争する点では、臣らは君に及ばない。だが、漢の社稷を全うし劉氏の子孫を安定させる点においては、君は臣らにおよばない。”
このセリフが吐かれた時点での見通しはどうだったのでしょう。“自分達が粛清されなければ、いずれ呂后は死ぬし、呂氏のその他の有象無象は有能ではないから呂氏を打倒して劉氏を盛り返すことができる。”ということでしょうか?こう書けば、実際陳平たちは後日呂后の死後に呂氏を滅ぼしてしまうので、それなりのしっかりした見識と見えないこともないです。
しかし、現実問題としては一寸先のことさえ分かりません。呂氏が一段と力をつけ、有能で危険な陳平や周勃を先に殺してしまうかも知れません。呂后が生きているうちでも、早いうちに決戦にでて呂氏を滅ぼす策もあったのではないか、と思います。だけどそれが怖くて先送りし、呂后の死後運よく呂氏を滅ぼせたと取れないこともありません。

結局のところ呂氏の専横は、呂后と呂后を恐れる重臣たちの合作によりもたらされたものと思えてしまいます。

史記にしばしば出てくる、富と権力の階段の頂点を究めようとする人に、そんな栄耀栄華は却って一族皆殺しの危険を招きますよ、ほどほどにしておいた方が安全ですよ、という忠告をしてくれる人物が呂氏に対しては出てきません。
呂后はあまりにも怖い人で、誰もそんな進言ができなかったか、あるいは忠告する人はいたけれど呂后が聞き入れなかったのか




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2015年8月2日日曜日

史記 呂后本紀 第九(6)



恵帝は二十四歳でなすところなく亡くなったのはすでに書いた通りです。呂后はこのひ弱息子の早世は読んでいたのかもしれません。恵帝が死んでも自分の影響力を残せる跡継ぎを確保しておく必要があります。
ここから先は呂后の陰謀がどろどろしたものである結果(?)、記述もどろどろしたものになります。

呂后の娘で恵帝の姉である魯元公主の娘、即ち恵帝の姪を皇后に立てます。史記にはなぜか
「宣平侯女為孝惠皇后時,無子」
“宣平侯の女(ムスメ)が孝恵帝の皇后であった。子がなかったので。。。”
とかかれています。これだけ読んだのでは皇后の正体はわかりません。
しかし史記でその前の方を読むと
「魯元公主薨,賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父,宣平侯張敖也。」
“魯元公主が死んで、魯元太后と諡(オクリナ)を賜い、その子の偃(エン)を魯王とした。魯王の父は宣平侯の張敖(チョウゴウ)である。”
と書いてあるので、魯元公主の連れ合いが宣平侯張であることがわかります。よって“宣平侯の女”と書かれた女性は魯元公主の女(ムスメ)つまり姪だと分かるようにはなっています。

漢書高后紀(漢書での呂后の本紀です。)はもっと分かりやすく
「太后立帝姊魯元公主女為皇后,無子,
とあります。小竹武夫さんの訳によれば
“太后は帝の姉魯元公主の女(ムスメ)を皇后に立てたが、子がなかったので…”
となります。
自分の息子の恵帝に、自分の娘の娘である、恵帝にとっての姪をくっつけるとは随分強引だし、母の愛など感じませんね。
呂后は何がなんでも漢王朝の中で呂氏の血を濃くしたいようです。

ここまでで“子がなかったので”のあとを書きませんでした。
史記によれば、“いつわって妊娠したふりをして、後宮の美人(女官の位)の子を引き取って実子と称し、その母を殺してその子を立てて太子とした。孝恵帝が崩ずると太子が立って帝となった。”とあります。これもまた乱暴な話です。
因みに漢書では、子供を産んだ美人を殺したという記述が何故か省かれています。

この子供でっち上げ工作は、史記でも漢書でも魯元公主の娘が自分の立場の確立のために自発的にやったなどということではなく、呂后の差し金という話になっています。これだけのことをやる動機を考えると調達した子供が劉氏の子供ではなくて、呂氏に繋がる子供ではないか、という気がしてきます。

一方史記では、恵帝が女官に産ませた子として彊(淮陽王)、不義(常山王)、山(襄城侯)、朝(軹侯(シコウ))、武(壺関侯)が挙げられています。(ところがあとから否定の話も同じ呂后本紀の中で出てきます。)してみるととりあえず美人が生んだ子供の父は誰なんだということになります。もっとも呂氏が亡んだあとでは、恵帝の子とされる上記の王や侯達も恵帝の子供ではないとされます。これらもすべて呂氏の縁者だった疑いがあるわけです。

ところがなんでも自分の思う通りにいくものではなく、この美人が生んだ帝は、後宮の誰かから実母が殺されて皇后の息子にされた、ということを聞いてしまいます。大いに不満で、
我未壯,壯即為變」
わしはまだおとなになっていないが、おとなになったら変乱を起こしてやろう”
と言います。しかしこんなことを口にだすと、呂后にご注進する奴が出てくるに決まっています。話を聞いた呂后は心配になり、この帝を病気ということで幽閉し、その後廃位し、殺します。この帝は子供ですが、呂后は情け容赦はしません。
その結果、常山王の義(不義が死に、襄城侯の山が名前を義にかえて常山王になっていました。)をたてて帝とし、名を弘と改めさせます。そもそも殺された(美人が生んだ)帝が劉氏でないのなら、あとの帝である弘はとても劉氏とは思えませんね。
なお史記では確かに「常山王」とあります。しかし漢書ではこの王は恆山王と書かれています。しかし名前は弘で同一人物には間違いありません。






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