2016年12月12日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (8)

建安五年(200)八月に袁紹は前進し、合戦して曹操に対して優位にたちます。さらに袁紹は官渡にまで進出してきます。この時、曹操軍は食糧が足りなくなって、曹操はいったん許に帰ろうかと荀彧に相談します。
しかし、荀彧から今敵を制圧しなければ付け込まれる、と撤退に反対されます。ここで荀彧は、”曹操は武勇に優れ、英明でもあるし、天子を奉っているから正義もあるし、必ず成功します。”という説き方をしています。
すくなくも、荀彧は天子を奉戴する正義を信じていたのでしょう。しかし曹操は建前としてでもあまりそのような主張はしていなかったのではないでしょうか。

さて袁紹のところから逃げてきた許攸という者が曹操に、袁紹軍の糧秣を貯蔵している烏巣の淳于瓊らの軍の攻撃を進言します。曹操はその策を聞き入れ、本陣は曹洪にまかせ、曹操みずから攻撃にでます。

これに対し袁紹の方は、糧秣輸送軍の支援に力を尽くすよりも、むしろ曹操の本営を攻撃して撃破すれば糧秣輸送軍の方は自然になんとかなる、という提案にのり、曹洪が守る本営の攻撃に張郃、高覧を派遣する一方、烏巣には不十分な数の騎兵を応援にだします。しかし、糧秣輸送軍は打ち破られ、淳于瓊は死にます。一方曹操の本陣に向かった部隊は淳于瓊が敗けたことを知って曹操に降伏してしまいます。
これで袁紹軍は糧秣をすべて失い、本陣を攻めた張郃と高覧の兵を失って惨敗となります。

正史の記述の流れでは、曹操は正しい進言を採用し、袁紹は間違った意見を採った、ということになります。たしかに結果を見ればそのように見えます。
しかし曹操の果断さと軍事的センスの良さが成功をもたらした面があると思います。
曹操が袁紹の立場で曹洪の守る本営を大軍集中で攻撃したらこれを落とせたかもしれないし、あるいは逆に袁紹が曹操の立場なら、中途半端な烏巣攻撃で淳于瓊の軍に糧秣を守り切られてしまったかも知れないと思えるのです。
曹操は最終的には官渡の戦いに大勝し、許にもどりました。

一方、袁紹は敗れて這う這うの体で黄河を渡って逃れ、帰還しました。それからふたたび離散した兵を収容し、背いた諸郡県を平定しました。
しかし結局建安七年(202年)に病死します。

このあと袁紹の子供たち(長男の袁譚、三男の袁尚)は兄弟であらそって、曹操はこれに乗じて、旧袁紹の支配地はすべて取り込むことに成功します。





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2016年12月4日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (7)

これから曹操は袁紹と対峙し、白馬の戦い、官渡の戦い、と曹操の中国北方の覇権を決定的にする戦いがあります。

建安五年(200)袁紹は河南侵攻の意思を固め、劉備征伐に曹操が出ている隙に黄河南岸の白馬を攻撃します。劉備征伐から戻った曹操は荀攸の進言に従い、まず白馬から数km離れた延津(エンシン)から楽進と于禁に渡河して背後をつく様子を見せて袁紹軍を分散させ、それから、張遼と関羽(当時曹操に降伏して配下にいた。)に白馬を攻撃させます。
この時関羽は敵中深く侵入し、敵将の顔良を斬っています。三国志演技にも有名なエピソードとして出てきます。これにより白馬の包囲は解けます。
一方渡河した于禁と楽進は袁紹の守備陣を焼き払います。

曹操は白馬の民を移住させ、黄河に沿って西方に向かいます。袁紹はこれを追って渡河し延津の南まで来ます。曹操は兵を南阪の下に陣営を築きます。

この時白馬の(曹操軍の)輜重部隊が移動してきました。諸将は袁紹軍の騎兵を恐れ、引き返すことを進言しますが、荀攸は輜重部隊を、袁紹軍を誘う囮にする策を進言し、曹操軍はとどまります。袁紹は配下の騎兵の将、文醜と劉備に曹操の攻撃をさせます。しかし輜重部隊を襲う事で文醜軍の陣形が乱れ、曹操軍はこれを散々に打ち破ることに成功します。文醜はここで戦死します。

これらの記録を見るかぎり、袁紹軍は曹操軍に翻弄され続けてています。曹操は優秀な人材の進言をよくきき、吟味して、優れた大局観のもとで兵を動かしていたように見えます。

一方袁紹の方は、かつて果断に宦官を征伐し、董卓征伐の諸侯同盟軍を起こしたり、公孫瓚に冀州を攻めさせて韓馥を怯えさせ、韓馥に冀州を献上させたり、さらに公孫瓚を滅ぼして、結局冀州、青州、幽州、幷州にまたがる大勢力を築き上げたりした男の面影はなぜかありません。
曹操という大才のある人物には通じなかったのでしょうか。

さて、関羽は顔良を斬ったあと間もなく、劉備のもとに逃げ帰ります。関羽は武将として優れ、曹操も恩をかけたはずですが、劉備との絆は断ちがたいものがあったのです。関羽は人情に厚い男だったのですが、逆に見れば劉備の人を引き付ける力はおどろくべきものと思います。
劉備は当時袁紹の客将で大した勢力もありませんでした。劉備についてなかなかの人材で、人望も能力もある、とそこそこの評価もありましたが、のちに帝位に就くとまでになるとは誰も予想していたわけではありません。
一方、曹操は当時すでに天下を争うほどの勢力でした。しかも関羽は曹操のもとですでに大きな手柄を立てて能力を認められています。曹操のもとにいれば武将として出世の可能性は大いにあったと思います。
劉備の下に付いていていては出世して天下に名を馳せるどころか、敗戦に巻き込まれ、命を落とす可能性も大いにあったのです。

関羽は何か曹操にある部下として仕えるには危険な部分を感じ取っていたのでしょうか。あるいは曹操は結局漢室を扶け盛り立てる本当の忠義の人ではない、と見限ったのでしょうか。


さて、この戦乱の時代に曹操が北の強敵と戦っているのですから、その留守に曹操の本拠地である許を襲撃を考える人間がいてもよさそうです。
しかしその覇気と能力のあった呉の孫策は許を襲撃する計画は立てましたが、刺客に殺害されました。
劉表は構想力も覇気もない男で荊州に居座ったまま動きません。
黄巾の賊くずれの劉辟という者が袁紹に味方し、許の近郊を荒らしました。袁紹は劉備に命じて劉辟を援助させます。しかしこれはいかにも力不足の遊撃隊でした。ここでも袁紹は中途半端でした。曹操は曹仁を派遣して劉辟、劉備の軍を打ち破らせます。
しかし、全体としては曹操は背後を襲われないということについては運がよかったといえましょう。





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2016年11月7日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (6)

曹操は建安三年(198)に張繍を破り、呂布を殺し、眭固(スイコ)を斬っています。一方敵対する袁紹は、公孫瓚を破って領地を併合し、青州、冀州、幽州、幷州の四州に跨る大勢力を築き、十余万の軍勢で許を攻撃しようとします。袁紹は愈々曹操と正面衝突する形勢になります。

しかし武帝紀では、袁紹との対決の前に袁紹の従弟、袁術の話が出てきます。彼は荒淫、奢侈で領民を苦しめていたのですが、自分勝手に皇帝を僭称します。けれども曹操らに打ち破られ、皇帝の称号を袁紹に奉って袁譚のところに身を寄せるべく、下邳を通って北方に行こうとします。
袁術も不思議な男です。漢の皇帝が譲位するのではなくて、自分で勝手に称した皇帝の位を譲る、なんて言われて喜んでもらう人間なんているでしょうか。

ところで袁術の北方への逃亡を曹操が劉備と朱霊をやってさえぎらせます。袁術はしかし病死してしまいます。曹操が劉備を派遣したとき。程昱と郭嘉が劉備を派遣すると聞き「劉備不可縱」(劉備を自由にしてはなりません。)と進言します。
曹操は後悔し、彼を追わせますが間に合いません。劉備は東に出発する前に、密かに董承らと謀反を企んでいたので、下邳までくると徐州刺史を殺害し、旗揚げしてしまいます。

このあたりの話からすると、曹操は程昱や郭嘉ほどには劉備を恐れていなかった風にも見えます。

しかしすぐあとではそうでもない記述が出てきます。

建安五年(200)に董承達の計画が漏れ関係者が全員処刑されたあと、曹操は東に向かい劉備討伐に向かいます。
この時諸将は曹操に向かって、今天下をあらそう相手は袁紹で、その袁紹が攻めてくるのに東へ向かって、背後を突かれたらどうしますか、と引き留めようとします。しかし曹操は
「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」
即ち、今鷹さん、井波さんの訳によれば、
“そもそも劉備は人傑じゃ。今攻撃しなければ、のちのわざわいとなるにちがいない。袁紹は大きな志望をもってはいるが、機を見るに敏でない。きっと行動は起こさないだろう。”
といいます。
これだと劉備の能力を恐れて征伐にかかったことになっています。しかし本当のところは董承の陰謀に劉備も関わっていて、しかもうまく逃げてしまったことを曹操は知って、すっかり腹をたてていたのではないか、と勘繰れないこともないと思っています。袁紹については決断が遅く、出てはこないだろうと踏んでいたのでしょう。


曹操はこの時、劉備を打ち破り、関羽を降伏させました。そして袁紹は結局動きませんでした。曹操の見通しは正しかった訳です。判断力と度胸はあったということでしょうね。





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2016年10月30日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (5)

当時活動した英雄の中に呂布という者がいます。曹操と戦って敗れ、劉備を頼りました。呂布は当時名が高かったから劉備も利用価値を考えて迎えたのかもしれませんが、これは甘かったのです。劉備が袁術を攻撃している間に呂布は下邳(カヒ)を襲撃して奪い取ってしまいます。
劉備は小沛にしばらくいましたが、また呂布に攻撃され、逃げて曹操に身を寄せます。

この時、曹操配下の程昱が進言します。
觀劉備、有雄才而甚得衆心、終不爲人下。不如早圖之」

今鷹さんと井波さんの訳によれば
“劉備を観察しますに、ずばぬけた才能をもっているうえにはなはだ人心をつかんでおります。最後まで人の下にいる人物ではありません。早く始末されるがよいと存じまが。”
となっています。

これに対し、曹操は、今は英雄を収攬する時機で、劉備一人を殺して天下の人身を失うのはよくない、として劉備を殺すことはしませんでした。程昱は人を見る目があったということです。しかしこの時の曹操の意見も一般的には愚かとは思えません。寧ろもっともな意見を言っています。

さらに、「魏書」に、当時の英雄の一人、袁紹が元大尉の楊彪、大長秋の梁紹、少府の孔融と仲が悪く、過去のことを持ち出して曹操に彼らを処刑するように仕向けた件での曹操の回答があります。曹操は、「今天下は乱れ、上下の信頼関係が失われ、人は自分のことばかり考え信頼されていないという懸念を持っている。漢の高祖が雍歯(ヨウシ)という仇敵をゆるしたので人心の安定を得たことを忘れてはならない、」として、これらの人々をこの時は処刑はしませんでした。

この限りでは曹操は心の広い立派な人だったようにも見えます。

しかし、上に挙がっていたうちの一人の楊彪なる人物は有能な当時の名士であり、高官に登った男ですが、袁術と縁組を結んでいました。その袁術が天子を僭称しました。一方、曹操は楊彪とは折り合いがよくなかったので袁術との姻戚関係を理由に楊彪を捕縛し、殺そうとしています。孔融、荀彧等は心配し、尋問担当の満寵(マンチョウ)に「説明を聞くにとどめ、いためつけることのないように、と頼んでいます。満寵は尋問はしましたが、罪が明確でないのに処刑しては人望を失う、と曹操に進言し、楊彪は危うく命が助かります。

一方助命嘆願した孔融(彼も上に書いたとおり袁紹が曹操に始末を唆した対象です。)の方は、建安13(208)に孫権の使者に対し太祖(曹操)誹謗の発言をした、という理由のもとに市場で斬られています。彼の小さな子供(男子が9歳、女子が7歳)も含め一族皆殺しにされました。

曹操は袁術に対してはもっともらしいことを言いながら、結局気に入らない相手には結構厳しいことをやっています。

「崔琰伝」の中に次のような記述があります。
「初、太祖性忌。有所不堪者、魯國孔融、南陽許攸、婁圭。皆以恃舊不虔、見誅。而琰最爲世所痛惜、至今寃之。」
井波さん、今鷹さんの訳によれば
“そのかみ、太祖は嫌悪の情が強い性格で、我慢できない相手がいた。魯国の孔融、南陽の許攸・婁圭(ロウケイ)はみな、昔の関係をたのんで不遜な態度をとったことから処刑された。ところが崔琰はもっとも強く愛惜され、現在に至っても彼の死は無実だとされている。”
ということです。

劉備についてはどうでしょう。蜀書の先主伝(劉備の伝記)の末尾にある評の出だしは
「先主之、弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉
とあり、井波さんの訳では
“先主(劉備)は度量が広くて意思が強く心が大きく親切であって、人物を見分け士人を待遇した。思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった”
ということで、その人柄が褒められています。
そして評の末尾には
「然、折而不撓、終不爲下者。抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。」
とあります。
井波さんの訳によれば
“しかしながら敗れても屈服せず、最後まで(曹操の)臣下にならなかったのはそもそも彼(曹操)の度量からいって絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためというのではなく、同時に害悪を回避するためでもあった。“
ということです。

劉備は、程昱のみならず周囲の人にも並外れた男と思われる人物であり、自身も大きすぎる人物故に彼(曹操)の下ではいずれ邪魔にされるようになる、と直感で分かったということなのでしょう。
曹操は人の好悪が激しく、権力を振り回して気に入らない人間を始末するという面があったのです。人柄という意味では劉備に劣っていたのではないでしょうか。





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2016年10月22日土曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (4)

曹操は家財を散じて義兵を集め董卓を滅ぼそうと計画します。董卓はこの時都にいて天下を制圧した形ですが、悪逆無道なことをやっており、征伐されても当然と思われました。
中平六年(189)12月に己吾(キゴ)において旗揚げします。しかし翌初平元年(190)正月に各所の群雄が董卓討伐軍を起こし、袁紹が盟主になります。曹操もこれに参画します。

董卓は挙兵を聞くと洛陽を焼き払い、天子を長安に移します。これから先の討伐軍が情けないです。董卓軍が強力なので、諸将はあちこちに駐屯して、誰も先頭に立って進みません。
曹操はこの状況に怒り、兵を進めますが、董卓配下の徐栄に敗れ、流れ矢にあたって敢え無く敗走します。しかし、徐栄は曹操の軍が少ないのによく戦ったのをみて、酸棗は容易には攻めきれないと判断し、兵を引き連れて帰還してくれます。曹操は気概がある男であることがわかります。そしてここではその努力の甲斐も多少なりともあった訳です。

しかし、曹操が酸棗にもどると、諸将は毎日酒盛りの大会議という体たらく。曹操は積極策を提案するも、みんなはいうことを聞きません。
軍事に素人の私が見ても大軍を集めて、毎日酒盛りで撃って出ないなら人や馬の糧秣がたちまち足りなくなるのではないかと思ってしまいます。略奪でもしていたのでしょうか。
結局この袁紹を盟主とする董卓討伐軍は竜頭蛇尾に終わりました。

その後、正史では、曹操が劉虞擁立に反対したこと、当時の司徒王允が呂布と共謀して董卓を殺したこと、劉岱が黄巾の賊に敗れて死んだこと、袁術と袁紹が仲たがいをしたこと、などが書かれています。

そして曹操が昔、父の曹崇が陶謙により殺害されたことの復讐に出た話が出てきます。なお、「世語」での記述では、陶謙が兵を出して曹崇の家族全員を死に至らしめたというの事のようです。
一方、韋曜(イヨウ)の「呉書」では、陶謙は部下に曹崇を護送させたのですが、あろうことか、この部下が曹崇を殺害し、財物を奪って逃げてしまった、という話になっています。曹操はその責任はすべて陶謙にあり、ということで陶謙を討伐したわけです。

曹操軍は陶謙討伐にあたり、通過した地域では多数の者を虐殺した、とあります。責任は陶謙にあるのに、陶謙を殺すことはできず、罪もない住民を虐殺したのですから、ただの残虐行為です。董卓と選ぶところがありません。

その後は呂布との闘いがしばらくあります。勝ち負けありますが決着はつきません。

建安元年(196)曹操は天子(献帝)を迎えようとします。諸将のうちには疑念を抱くものもあったようです。「諸將或疑。」と書かれています。何が疑念かが書いてありませんが、天子を頂くのが本当に得かどうかだと思います。結局荀彧と程昱が勧めたので曹洪に迎えに行かせます。

思想的傾向から推し量れば、荀彧は漢帝を迎えて誠心誠意漢の再興を図ろうとしたように思われますし、程昱は曹操が天下に号令するのに都合の良い切り札を握れると考えていたと思われます。
しからば曹操はどうなのでしょうか。三国志演義の曹操なら、間違いなく程昱の構想でしょうが、正史でははっきりしません。
しかしこの時迎えに行った曹洪は董承らに阻まれて不成功でした。

その後まもなく曹操は障害を排除し洛陽に赴き、帝を許(曹操の本拠地)に迎え入れることに成功しました。





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2016年9月26日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (3)

何進が都に招いた董卓は、何進が殺されたあとで到着しました。
董卓は時の皇帝であった少帝辯を廃して弘農王とし、代わりに献帝を擁立します。献帝の方がしっかりした人間である、と判断したのです。そして曹操を驍騎校慰に任命し、董卓の相談にあずかってもらうようにしようとします。驍騎校慰とは、黄巾の乱ののちに制定された西園八校慰の一つで、皇帝親衛隊の指揮官だそうです。
董卓は暴虐な人間ですが、人の能力を見る目はあったのではないでしょうか?
献帝は少帝辯よりしっかりしていたし、曹操は有能な人材であった訳です。逆に言えば曹操は董卓にも有為の人材と思われたわけです。

 ここでも曹操は先見の明があるところを示します。董卓は駄目だと判断し、逃亡してしまいます。

 この逃亡中に事件が起こります。「魏書」の記述によれば旧知の呂伯奢(リョハクシャ)という者の家にたちよります。しかし本人は留守で、子供たちと食客がぐるになって曹操をおどし、馬と持ち物を奪おうとします。そこで曹操は自ら刀を振るって数人を撃ち殺した、ということです。
これならば、曹操は個人的武勇にもすぐれているというだけのエピソードです。

 しかし「世語」では三国志演義にも類似の話が出てくる胸糞の悪い話になっています。すなわち、呂伯奢は外出していたが五人の子供たちがいて主客の間の礼もわきまえていました。ところが曹操は彼らが自分を始末するつもりか、と疑い剣を揮って夜の間に八人の人間を殺害して去った、というのです。
さらに孫盛の「雑記」によれば次のようになります。
 「太祖聞其食器聲、以爲圖己、遂夜殺之。既而悽愴曰「寧我負人、毋人負我!」遂行。」
 今鷹さんと井波さんの訳によれば、
 “太祖(曹操)は彼ら用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。そのあと悲惨な思いにとらわれ、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせないぞ」といい、かくして出発した。” となります。
これでは猜疑心がつよく、疑ったら簡単に人を殺してしまう人ということになります。曹操のこの手のエピソードが、この呂伯奢の話だけならば、呂家の殺人の経緯については複数の説があり、どれが正しい話かわからないのですが、先々での部下に対する態度のなかにも、そうした冷酷な側面が見えないでもありません。多くの人が簡単には共感できない側面を持つ人物と思われます。




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2016年9月18日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (2)

「魏書」によれば。大将軍の竇武(トウブ)と太傅の陳蕃(チンバン)が宦官殺害を計画し、逆に殺された事件(第二次党錮の禁)について曹操は上奏文をたてまつり、正直(せいちょく)な人が殺され、邪悪な人が朝廷に満ちている、と厳しく非難しました。これはまかり間違えば宦官に陥れられて命を落とす危険がある行動で、曹操は勇敢な男であったことがわかります。しかし霊帝はこの意見を採用できませんでした。
そのあと、天変地異があって、ひろく政治批判の意見が募られたとき、曹操は三公(司徒、司空、大尉)が貴族、外戚に阿って政治をゆがめていることを厳しく非難しました。これも効果がなく、その後曹操は朝廷に献策することはなくなりました。
この行いの限りでは曹操は良識ある人間であることが推察されます。

黄巾の乱が勃発しますが、曹操は潁川(エイセン)の黄巾の賊を討伐し、済南国の相になります。軍事的才能も十分にあります。
この国は腐敗していて貴族外戚に迎合する役人が多く、贈賄汚職が横行していたので曹操は八割を免職にして、邪悪で民衆の負担になる祭祀を禁止し大いに治績を挙げています。ここでも良識があり、かつ能吏であることを示しています。

このあと不思議なエピソードがあります。
冀州の刺史王芬(オウフン)、南陽の許攸(キョユウ)、沛国の周旌(シュウセイ)等が時の皇帝である霊帝を廃して合肥公を擁立しようとして、曹操のこの計画を打ち明けた話です。

「冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等、連結豪傑謀廢靈帝」
と記述されています。

曹操はこの計画はうまくいかないと考え、断っています。本物かどうかはわかりませんが、曹操の断りの手紙が「魏書」に出ています。曹操は、手紙では過去の天子の廃立と状況を比べて、そんなに簡単ではないと説いていますが、彼はかかわっている人間の資質、能力も見てこれは到底駄目だと判断したのではないでしょうか。
上の引用に“連結豪傑”の語があります。有力者とも謀っていた訳です。しかし、これでは知っている人がぞろぞろいて危険極まりないです。

実際うまくいきませんでした。
しかし、この件は露見したとはいえないようです。王芬は賊の鎮圧を名目として軍の出動を要請したのですが、太史(天文係)が陰謀の疑いがあり北方への巡行は不適、と進言した結果、帝は出動を中止し、王芬を召し出します。王芬はこれに恐懼して自殺してしまうのです。なんで慌てて自殺したのでしょう。知らん顔して戻ってもよいし、ものはためしで軍の出動を帝に説得してもよかったのではないでしょうか。一方、許攸はこの事件のあとも生きながらえています。殺されてはいません。
こうした計画を相談しながら断られてそのまま、というのもやや奇異に感じます。普通ならそんな陰謀を話してしまった以上は、相手が加担してくれなかったら密告の危険のある人間になります。しかしあちこちに相談している愚劣な連中だから相談された自分にとくに危険は及ばないだろう、と曹操は踏んだのでしょうか。

当時宦官が専横を極め、大将軍の何進は袁紹と宦官誅殺を謀っていましたが、皇太后(何進の妹で霊帝の皇后)が許可しなかったので、董卓を召し寄せて皇太后に圧力をかけようとしました。即ちすでにこの時点で皇太后が知っていた訳です。「魏書」によれば曹操はこれを聞いて笑って、“罪を処断するなら張本人を処罰すれば十分で一人の獄吏で用が足りる。外にいる将軍を召し寄せる必要はない。宦官を皆殺しにしようとすれば事は露見する。失敗は目に見えている。”と言っています。曹操もまた事前に知っていたのです。

こんな有様では本当に失敗してしまいます。実際何進は先手を打たれて殺されてしまいます。ここでも曹操は見通しのよい優れた人間であることを示しています。





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2016年9月2日金曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (1)

今回は本紀を扱うので、正史の項目をそのまま書けば武帝紀第一です。
しかしそれではわかりにくいので(曹操)を入れました。
 三国志の武帝紀によれば曹操「漢相國參之後」すなわち、漢の高祖劉邦を助けて手柄を立て、二代目恵帝のとき相国となった人の子孫だというのです。しかし曽参は劉邦の大物家臣だったとしても、ここでは大して有難味がない記述です。
なんと曹操の父、曹崇は、宦官である曹騰の養子なのです。 さて司馬彪の「続漢書」によれば、その曹騰の父である曹節はなかなか評判の高い男で、男子が四人いて、字がそれぞれ伯興、仲興、叔興、そして末子の騰が季興というのだそうです。曹騰は年少のころ黄門の従官に任命された、とあります。しかしこの職は宦官がなるものです。現代人には信じられないことですが、親の曹節が子供の曹騰を宦官にしてしまったようです。 

その後曹騰は皇太子(後の順帝)の学友に選ばれ、非常に可愛がられたようです。そういう出世の道があるから曹節は末子を宦官にしたのでしょうか。曹騰は四人の皇帝(安帝、順帝、沖帝、質帝)に仕えて一度も落ち度がなく、優れた人物を引き立てることが好きだったそうです。 曹騰はなかなか立派な人であったようですが、当然ながら曹騰の子の曹崇は養子であって、曹節や曹騰がどのような人物であったかは曹操とは直接関係ありません。
 曹崇は、もとは夏侯氏の出で、夏侯惇の叔父だそうです。

 さて曹操(太祖)は若いころ
「太祖少機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、故世人未之奇也。」
 だった、とあります。今鷹さん、井波さんの訳によれば、
 “太祖は若年より機知があり、権謀に富み、男だて気取りで、かって放題、品行を整えることはしなかった。従って世間には彼を評価する人は全然いなかった。”
 です。

 機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、の男をまるで評価する人がいない、というのはちょっと変に見えます。
 実際、橋玄という人は “天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは君であろうか。” といったそうですし、許子将という人物評価で知られる名士からは “君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。” と評されています。この許子将の評は有名です。
 むしろ見る人が見れば若いころから優秀だったのかと思われます。




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2016年8月7日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(8)

官渡の戦いのあと冀州のまちの多くが袁紹に叛旗を翻しますが、これを袁紹は撃破しています。

かくて彼が生きているうちにはなんとか袁家の勢力はあったのですが、死後に問題が発生します。袁紹についての記述の(5)にも書きましたように、袁紹は息子の袁譚、袁煕、袁尚、および甥の高幹にそれぞれ一州を支配させ能力を見たいといいました。
ところが病を得た袁紹の最後についての正史の記述は
「自軍敗後、發病。七年、憂死。紹愛少子尚、貌美。欲以爲後、而未顯。」
今鷹さん、井波さんの訳によれば
“戦いに敗れて後発病し、建安七年(202)、憂悶のうちに死んだ。袁紹は年少の子袁尚を美貌のゆえに愛し、後継者にしたいと思っていたが、まだ公表していなかった。”
です。
結局袁紹は統治能力ではなくて見た目がよい袁尚を選びたがっていたのです。正妻の劉氏の影響かもしれません。

では本当は誰がよかったのでしょう?
袁譚の施政について正史の註に「九州春秋」の引用があり、
然信用羣小、好受近言、肆志奢淫、不知稼穡之艱難。」
すなわち、今鷹さん井波さんの訳によれば
“小人を信任し、卑近な言葉を好んで受け入れ、思い通りにふるまって奢侈淫蕩におぼれ、農業の苦労をわきまえなかった。”
という体たらくでお話になりません。
さらに袁譚は妻の弟に兵を統率させて城内においたのですが、この兵隊が盛り場では追剥、泥棒をやり、城の外では田野を荒らしまわる始末だったそうです。

さりながら、同じく正史の註にある「典論」の引用では
譚長而惠、尚少而美。紹妻劉氏愛尚、數稱其才、紹亦奇其貌、欲以爲後、未顯而紹死
すなわち
“袁譚は年長で、恵み深く、袁尚は年少で美貌であった。袁紹の妻の劉氏は袁尚を愛し、たびたび彼の才能を称揚し、袁紹もまた彼の容貌をめで、後継者にしたいとおもっていたが、まだ公表しないうちに袁紹は死亡した。”
とあります。これだと袁譚が特に悪いというほどではありません。むしろ袁尚を選択することに問題ありです。

結局私の貧弱な文献知識では誰が適任かわかりません。

しかし誰かが優秀だったとしても、一度分けて州を統治させてしまえばそれぞれが後継者候補となり、また束ねるのは至難の業です。家来たちは派閥を形成し、互いに対立し、兄弟たちの意思とは関係なく争いになっていくということは大いにあり得る結果と思います。曹操という強敵がいるのに兄弟で争うのは愚劣の極みというのは簡単ですが、人間そういう状況におかれればやむを得ずそういう方向に流れてしまうではないでしょうか。
袁紹の施策の結果、兄弟喧嘩が必然的に発生し、袁家の滅亡に直につながったまでは断言できませんが、この争いの種をまいた袁紹はこの点においては愚かであったと思います。







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2016年6月5日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(7)

このあと曹操は官渡に戻ります。沮授は
「北、兵數衆而果勁不及南。」
と説きます。即ち
“袁紹軍()は、数は多いが勇猛果敢さでは曹操(南)におよばない。”
そして一方
「南、穀虛少而貨財不及北。」
といいます。即ち
“曹操軍()の食糧は足りていないし、財貨で袁紹軍()におよばない。”
です。
したがって、敵は短期戦が有利、袁紹側は長期戦が有利だと説きます。

もう一人袁紹にはすぐれた家来がいます。田豊です。彼も長期戦に持ち込むことを提案します。曹操は用兵に巧みで、軍勢は少なくても侮れない。一方袁紹は自然の要害があり、河北四州(青州、冀州、幷州、幽州)の軍勢をかかえているので、内政、外交を充実し、奇襲隊で河南の軍を翻弄し、民衆を混乱させれば勝てる。勝敗を一戦で決めるのは危険、と説きます。

袁紹は沮授や田豊の献策を聞き入れず前進し、官渡に接近し合戦となります。田豊に至っては投獄されてしまいます。
この初戦では袁紹軍は負けてはいません。激戦の結果
「百姓疲乏、多叛應紹、軍食乏」
となります。今鷹、井波さんの訳によれば
「人々は疲弊しきり、多くのものが謀反を起こし袁紹に寝返り、兵糧も欠乏してきた。」
ということですから、曹操軍が相当不利になったのです。

しかし最後に袁紹は失敗します。淳于瓊等に輸送車(運車とあります。)を迎えに北に赴かせます。ここで沮授がさらに増援部隊を送って曹操の略奪に備えるべき、と進言しますが、袁紹は聞き入れません。ここまでのところで袁紹は概ね快調に勝っており、油断するのも無理ないとは思いますが。
本隊と四十里はなれた烏巣というところに宿営した淳于瓊は曹操に襲撃されてしまいます。袁紹は騎兵隊を救援に送りますが撃破されます。
そして高覧、張郃など袁紹の将軍たちは袁紹を見限り、曹操に降伏してしまいます。一方に形勢が傾くと、雪崩を打ってそれを加速するようなことが起こるのですね。

かくて袁紹の軍は総崩れになり、
「紹與譚、單騎退渡河。
という有様でした。すなわち袁紹と(長男)袁譚は単騎で黄河を渡って逃げたのです。

袁紹の方は曹操に敗けて逃げもどってから、田豊の意見を聞かなかったことを恥じて彼を殺害してしまいます。その結果正史に以下のように書かれてしまいます。
「紹、外寬雅有局度、憂喜不形于色、而多忌害、皆此類也
すなわち、今鷹、井波さん訳では
“袁紹は表面はおっとりと上品で度量があり、喜怒哀楽を表情にあらわさないが、内心は嫌悪の情が強かったこと、みなこの例の如くであった。”

勝つチャンスはあり、その方策を述べた有能な士もいたのだが、度量が狭くその言を採用せず、みすみす敗れ去った、という評価がなされています。

さて曹操だって赤壁で大敗を喫しています。しかし正史の中の各所に現れる赤壁の戦いの記述は簡単で、曹操に勝利を得やすいような献策を誰かがしたとか、曹操が聞き入れなかったとかそんな話はでてきません。

正史の三国志は書いた蜀出身の陳寿が晋に仕えて書いたもので、一応魏から晋への流れを正統としています。曹操を貶める記述はありません。曹操が赤壁の戦い後早く世を去り、子供たちが争って劉備や孫権につけこまれて魏が亡んだら、もっと厳しいことを書かれたかもしれませんね。

劉備も夷陵で大敗しています。しかし、諸葛亮が国を支え、大敗の結果すぐに国が亡びるようなことはなく、三国鼎立は続きました。また陳寿は蜀出身だったので蜀を庇って書いているところもあり、劉備はあからさまにけなされていません。

袁紹はこの官渡の戦いで息の根を止められた訳ではありません。曹操も袁紹が生きている間に河北へ侵攻することはありませんでした。思うに袁紹は超一流ではなかったかもしれないが、若干運が悪くて実質以上に無能扱いされたのではないでしょうか。







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2016年5月28日土曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(6)



曹操に背いて沛に駐屯した劉備を曹操は攻撃し、劉備を撃破します。その結果、劉備は袁紹のところに逃げ込みました。この時関羽は捕えられ、曹操のもとに行きました。

袁紹が決意して曹操征討の兵を起こしたとき劉備は袁紹のもとにいた訳です。まずは白馬にいる劉延を配下の将軍である顔良に攻撃させます。
このあたりの両軍の動きですが、袁紹の方は黄河を渡り、延津(エンシン)の南に砦を築き、劉備と文醜に曹操軍に挑戦させます。
曹操はこれに対し延津に到着後、兵を渡河させて背後を突く動きを見せます。袁紹はこれに対応するため兵を西に動かします。その後で白馬が曹操により襲われ、関羽により顔良が斬られます。

顔良については沮授が 
「良、性促狹。雖驍勇、不可獨任」
と言って袁紹を諌めます。井波さんの訳によれば
顔良は性格がこせこせしており、武勇にはすぐれているものの、彼一人にまかせてはいけません。“
ということです。
袁紹は聞き入れませんでしたが、沮授の評価は当たっていたようです。
この白馬一戦は三国志演義でも関羽の活躍の場として書かれていますが、正史の関羽伝では以下のようになっています。

羽、望見良麾蓋、策馬刺良於萬衆之中、斬其首還。紹諸將莫能當者、遂解白馬圍。」
井波さんの訳では
“関羽は顔良の車につける大将の旗印と車蓋を望見すると、馬に鞭打って(駆けつけ)大軍の真っただ中で顔良を刺し、その首を斬り取って帰ってきた。袁紹の諸将のうちで相手になれるものはおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。”
となります。確かに関羽は驚くべき武勇の持ち主ですが、それにしても一軍を率いていながら、相手の大将に本営に踏み込まれ、あっさり首を取られるようでは顔良も大した力量がない将軍でしょうね。大事な戦で袁紹が犯した人選ミスです。
全体としての軍の動きも、袁紹の軍は右往左往で、曹操の方がうわてですね。

延津の南の軍も曹操は撃破し、ここで文醜は殺されます。三国志演義では文醜も関羽が斬ったように書いてありますが、正史では文醜は戦死です。二度の戦闘であっという間に顔良・文醜という有名な二将軍を失って袁紹の軍はふるえおののいた(紹軍大震)、と正史に記述されています。
つまり軍の士気が大いに下がった訳で、こうなってしまうと一方的にやられてしまう危険が大きくなります。まだ大軍を擁していたので、正しい進言を聞けば巻き返しも可能だったのでしょうが、どうもこの後の袁紹は「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」という言葉どおりになって行きます。





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2016年5月22日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(5)



袁紹は易京で公孫瓚を撃破して殺し、その軍勢を併呑します。このあたりまでが、彼の力がよく発揮されていた時代です。

その後段々に袁紹のやることに愚かしさが混じってきます。まさに古代ギリシャのパブリリウス・シリスの言う、「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」という話です。
長男の袁譚を派遣して青州を治めさせます。沮授がこれを禍の始まりになる、と諌めますが、息子たちにそれぞれ一州を治めさせ能力を見たいと言います。次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に幷州を治めさせます。これはさすがに問題がある措置に見えます。兄弟従弟が割拠の状態にしたままで遺言で後継者指名でもするつもりだったのでしょうか。それで収まるとでも思っていたのでしょうか?普通なら内訌勃発です。
また天下が群雄割拠の時代で、特に曹操がかなり頭角を現しています。ここで袁家の兄弟達で争っていたら打ち破られて袁家が滅亡する可能性が非常に高くなります。そんなことは特別の知恵がなくても思いつきそうな可能性なのですが

さて袁紹はいよいよ曹操と対決すべく許を攻略するために出兵します。この出兵の可否が部下の間で議論になりました。
「献帝伝」によれば田豊と沮授は、「出兵が続いて民衆は疲弊し、倉庫に貯えがない、農業を盛んにし、天子に使者をやって戦利品を献上する、」ということを提案します。天子に戦利品献上の提案は、天子を迎え入れて大義名分を得て天下に号令すべし、という考えに基づいている、と考えられます。
一方審配と郭図は、「袁紹の戦の能力はすぐれているし(実際これまでのところ実績をあげています。)、黄河北方の大軍を動員できるのだから今ならやれる、時間が経てば始末することは困難になる、」と言います。

民は疲弊して、倉庫に貯えはない、と言いますが、出兵にあたり食糧は十分に持って行けたのですから、倉庫に貯えはあったのです。民衆は疲弊というのがどの程度かは分かりません。しかし今戦いを起こさず先延ばしにすれば、曹操側からは何も起こさず民は安穏に暮らし続けられるでしょうか?何もしないのは多分問題の先送りに過ぎません。
曹操は有能で地盤をどんどん固めています。ぐずぐずすればますます強大になる、という意見は正しいと思われます。
したがってこの出兵が愚かであるとは言えないと思います。

さてこれより前、袁術が徐州を通過して北方の袁紹のもとへ赴こうとしたので、曹操は劉備を徐州に派遣して袁術に当たらせようとしました。しかし徐州に着かないうちに袁術は病死します。
ところで劉備が袁術迎撃に出る前、献帝の舅にあたる董承から曹操誅殺の密勅を受けたことを知らされていました。しかし劉備はまだ行動を起こしていなかった、という状態でした。
劉備が出ている間にこの件が漏洩し、関係者一同処刑されてしまいました。劉備は運が良かった訳です。したがって袁術が死んでも劉備は帰らず、徐州の刺史の車冑を殺し、沛に駐屯してしまいます。そこで曹操は初めは劉岱と王忠を派遣して劉備を征伐させようとしますが、うまく行きません。
とうとう曹操自ら劉備征伐に出馬します。この時はチャンスとばかり田豊が曹操の後方を襲うように進言します。しかし袁紹は自分の赤子の病気を理由に出兵しません。乱世に天下を窺おうとする英雄にしてはちょっと弱いですね。ここでやればもっと良かったのかも知れません。しかし、この期を逸したのが袁紹にとって致命傷であったとも思えません。



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2016年5月7日土曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(4)



さて董卓は袁紹が盟主である董卓討伐軍をなんとかする必要があります。
そこで胡母班(コボハン)という者と呉脩(ゴシュウ)という者に義勇軍解散を命じる詔書を持たせ、袁紹に服従するよう説得させます。しかし袁紹は河内太守の王匡(オウキョウ)という者にこの二人を殺害させます。
この対応は尤もなやり方です。そもそも董卓という男は残虐な男で様々な様々な悪事、人殺しを平気でやる男です。一たびこの男に反乱軍を起こしたら、あとで懐柔に応じるなんてナンセンスです。弱気を出して懐柔されてのこのこ挨拶に行ったらまず間違いなく殺されてしまいます。始めた以上当然徹底抗戦しかありません。

袁紹は董卓が献帝を立てることに賛成した訳ではありません。しかし献帝が河東に在住するに及んで郭図を使者として派遣します。郭図も沮授のように天子を迎えることを進言します。袁紹はこれを聞き入れません。
なお、袁紹伝に引用されている「献帝伝」によれば、沮授が袁紹に天子を鄴に迎え天子を擁して天下に号令することを勧めたのに対し、郭図と淳于瓊は、漢王朝は衰退してすでに長い時間が経ちもう再興困難、天子をお迎えして一つ一つの行動について上聞すれば、天子の意思に従えば自分の権力を弱め、意思に背けば勅命を拒否したことんいなり良策ではない、と進言したことになっています。こちらでは郭図の意見が正史と異なる書かれ方をしています。

天下を窺おうというのでしたら淳于瓊(郭図)の説くところは尤もです。天子を迎えたら天下に号令する名分は立ちやすいですが、今度はあとでその天子を体裁よくどける名分が必要になります。しかも天子を差し挟んで天下に号令するのは大義名分はよいとしても号令の強制力は自前の力でまかなう必要があるのです。

ここで袁紹は沮授(もしかして郭図も)の意見を取り上げて行動しません。では淳于瓊(もしかして郭図も)の意見を積極的に取り上げたのでしょうか?それとも単に決めかねて、なりゆきで、天子を奉じた曹操と戦うことになったのでしょうか?
「献帝伝」では沮授の意見によろこんで従おうとしたが、郭図と淳于瓊に反対され、決めかねたように書かれています。

当時の袁紹の立場から言えば天下を取るというのは妄想でもなく現実に可能性がある目標たりえたのです。ここで何もしないことでも意思決定になります。つまり謀士達のの意見を聞き、天子を迎えないならば、淳于瓊(郭図)の意見をいれたということです。彼の行動指針としては衰えた漢の天子を奉じない、という考えだったのではないでしょうか。
ここまでは袁紹は決して愚かとは言えないと考えます。





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