今回は本紀を扱うので、正史の項目をそのまま書けば武帝紀第一です。
しかしそれではわかりにくいので(曹操)を入れました。
三国志の武帝紀によれば曹操「漢相國參之後」すなわち、漢の高祖劉邦を助けて手柄を立て、二代目恵帝のとき相国となった人の子孫だというのです。しかし曽参は劉邦の大物家臣だったとしても、ここでは大して有難味がない記述です。
なんと曹操の父、曹崇は、宦官である曹騰の養子なのです。
さて司馬彪の「続漢書」によれば、その曹騰の父である曹節はなかなか評判の高い男で、男子が四人いて、字がそれぞれ伯興、仲興、叔興、そして末子の騰が季興というのだそうです。曹騰は年少のころ黄門の従官に任命された、とあります。しかしこの職は宦官がなるものです。現代人には信じられないことですが、親の曹節が子供の曹騰を宦官にしてしまったようです。
その後曹騰は皇太子(後の順帝)の学友に選ばれ、非常に可愛がられたようです。そういう出世の道があるから曹節は末子を宦官にしたのでしょうか。曹騰は四人の皇帝(安帝、順帝、沖帝、質帝)に仕えて一度も落ち度がなく、優れた人物を引き立てることが好きだったそうです。
曹騰はなかなか立派な人であったようですが、当然ながら曹騰の子の曹崇は養子であって、曹節や曹騰がどのような人物であったかは曹操とは直接関係ありません。
曹崇は、もとは夏侯氏の出で、夏侯惇の叔父だそうです。
さて曹操(太祖)は若いころ
「太祖少機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、故世人未之奇也。」
だった、とあります。今鷹さん、井波さんの訳によれば、
“太祖は若年より機知があり、権謀に富み、男だて気取りで、かって放題、品行を整えることはしなかった。従って世間には彼を評価する人は全然いなかった。”
です。
機警、有權數。而任俠放蕩不治行業、の男をまるで評価する人がいない、というのはちょっと変に見えます。
実際、橋玄という人は
“天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは君であろうか。”
といったそうですし、許子将という人物評価で知られる名士からは
“君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。”
と評されています。この許子将の評は有名です。
むしろ見る人が見れば若いころから優秀だったのかと思われます。
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