2016年9月18日日曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (2)

「魏書」によれば。大将軍の竇武(トウブ)と太傅の陳蕃(チンバン)が宦官殺害を計画し、逆に殺された事件(第二次党錮の禁)について曹操は上奏文をたてまつり、正直(せいちょく)な人が殺され、邪悪な人が朝廷に満ちている、と厳しく非難しました。これはまかり間違えば宦官に陥れられて命を落とす危険がある行動で、曹操は勇敢な男であったことがわかります。しかし霊帝はこの意見を採用できませんでした。
そのあと、天変地異があって、ひろく政治批判の意見が募られたとき、曹操は三公(司徒、司空、大尉)が貴族、外戚に阿って政治をゆがめていることを厳しく非難しました。これも効果がなく、その後曹操は朝廷に献策することはなくなりました。
この行いの限りでは曹操は良識ある人間であることが推察されます。

黄巾の乱が勃発しますが、曹操は潁川(エイセン)の黄巾の賊を討伐し、済南国の相になります。軍事的才能も十分にあります。
この国は腐敗していて貴族外戚に迎合する役人が多く、贈賄汚職が横行していたので曹操は八割を免職にして、邪悪で民衆の負担になる祭祀を禁止し大いに治績を挙げています。ここでも良識があり、かつ能吏であることを示しています。

このあと不思議なエピソードがあります。
冀州の刺史王芬(オウフン)、南陽の許攸(キョユウ)、沛国の周旌(シュウセイ)等が時の皇帝である霊帝を廃して合肥公を擁立しようとして、曹操のこの計画を打ち明けた話です。

「冀州刺史王芬、南陽許攸、沛國周旌等、連結豪傑謀廢靈帝」
と記述されています。

曹操はこの計画はうまくいかないと考え、断っています。本物かどうかはわかりませんが、曹操の断りの手紙が「魏書」に出ています。曹操は、手紙では過去の天子の廃立と状況を比べて、そんなに簡単ではないと説いていますが、彼はかかわっている人間の資質、能力も見てこれは到底駄目だと判断したのではないでしょうか。
上の引用に“連結豪傑”の語があります。有力者とも謀っていた訳です。しかし、これでは知っている人がぞろぞろいて危険極まりないです。

実際うまくいきませんでした。
しかし、この件は露見したとはいえないようです。王芬は賊の鎮圧を名目として軍の出動を要請したのですが、太史(天文係)が陰謀の疑いがあり北方への巡行は不適、と進言した結果、帝は出動を中止し、王芬を召し出します。王芬はこれに恐懼して自殺してしまうのです。なんで慌てて自殺したのでしょう。知らん顔して戻ってもよいし、ものはためしで軍の出動を帝に説得してもよかったのではないでしょうか。一方、許攸はこの事件のあとも生きながらえています。殺されてはいません。
こうした計画を相談しながら断られてそのまま、というのもやや奇異に感じます。普通ならそんな陰謀を話してしまった以上は、相手が加担してくれなかったら密告の危険のある人間になります。しかしあちこちに相談している愚劣な連中だから相談された自分にとくに危険は及ばないだろう、と曹操は踏んだのでしょうか。

当時宦官が専横を極め、大将軍の何進は袁紹と宦官誅殺を謀っていましたが、皇太后(何進の妹で霊帝の皇后)が許可しなかったので、董卓を召し寄せて皇太后に圧力をかけようとしました。即ちすでにこの時点で皇太后が知っていた訳です。「魏書」によれば曹操はこれを聞いて笑って、“罪を処断するなら張本人を処罰すれば十分で一人の獄吏で用が足りる。外にいる将軍を召し寄せる必要はない。宦官を皆殺しにしようとすれば事は露見する。失敗は目に見えている。”と言っています。曹操もまた事前に知っていたのです。

こんな有様では本当に失敗してしまいます。実際何進は先手を打たれて殺されてしまいます。ここでも曹操は見通しのよい優れた人間であることを示しています。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿