2019年10月7日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(1) -皇帝の妃たちの地位-

皇帝の妃の親兄弟等の親族、つまり外戚というのが権力を握り政治に重要な影響を与えることが中国の歴史ではしばしばありました。漢書ではわざわざ外戚列伝がたてられています。
外戚伝では、はじめによい寄与をした妃と、害悪を流した妃の例を挙げ夫婦が大切であることを述べています。
それから漢代での皇帝の夫人たちの呼称、格式についての記述がでてきます。初めは秦の時代に従い帝の母を皇太后、祖母を太皇太后、正夫人を皇后とし、妾はみな夫人と称したとのことです。その他に美人・良人・八子・七子・長使・少使などの称号があったとされます。項羽が愛した“虞美人”の“美人”は後宮の中での称号に対応しています。

武帝の時代になって、婕妤(ショウヨ)、娥(ケイガ)、傛華(ヨウカ)、充依(ジュウイ)という称号が制定されそれぞれに爵位があった、と記述されます。さらに元帝(武帝から三代あとの皇帝)が昭儀(ショウギ)という称号を追加した、全部で十四等級とした、と書いてあります。
格式を表の形に纏めると下の通りです。ただし上の十四等級とは辻褄があっていません。表で“なぞらえる”は原文で“視”であり、“匹敵する”は原文で“比”となっているものです。普通の男の爵位そのものは二十あります。表中で諸侯王になれるのは皇族だけで、臣下がなれる最高の爵位が二十等の列侯、その次が十九等の関内侯です。
称号
なぞらえる職位
匹敵する爵位(括弧内は爵等級)
昭儀
丞相
諸侯王
婕妤
上卿
列侯(20
中二千石(2160石)
関内侯(19; 実利では列侯並)
傛華
真二千石(1800石)
大上造(16)
美人
二千石(1440)
少上造(15)
八子
千石
中更(13)
充依
千石(九百石か?)
左更(12)
七子
八百石
右庶長(11)
良人
八百石(七百石か?)
左庶長(10)
長使
六百石
五大夫(9)
少使
四百石
公乗(8)
五官
三百石

順常
二百石

以下次の文言が続きます。
さらに低い地位の者については以下の記述の通りです
「無涓、共和、娛靈、保林、良使、夜者皆視百石。」
すなわち、“無涓から夜者までが百石になぞらえ、”
「上家人子、中家人子視有秩斗食云。」
“上家人子、中家人子は有秩・斗食になぞらえられる。”
ここで家人子とは良家の女子を宮中に入れられたがまだ職号のないものです。職号はなくても、対応する普通の男の爵としては有秩や斗食にあたるのです。有秩は郡の官吏で賦役、徴税の差配をします。斗食は一日一斗二升貰う役人です。
さらについでに
「五官以下,葬司馬門外。」
五官以下のものは、司馬門外(王宮の外門の外)に葬られる。
となっています。
なお、漢代の一石(セキ)120斤で一斤が258 gですから一石は31 kgになります。
つまり上位の人は格式もお手当も相当なものだったようです。

このお手当で白楽天の長恨歌にある如く「後宮佳麗三千人」だったら大層なものいりです。
ものいりだけならまだましですが、権力を握っているものが自分の娘を後宮に押し込んできたりします。これでお世継ぎを産んでくれれば、皇帝の祖父あるいは祖母となり、一段と権勢を振るえることを当て込んでいます。
また逆に寵愛した女の親兄弟を実家の身分が低いと体裁悪いので、高い位につけたりしますが、これが外戚として権勢を振るったりします。
つまり政治にしばしば影響を与えるということになります。




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2019年9月30日月曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(5)

以下の記事は2015(平成27年)2月22日にアップロードした「史記 白起・王翦列伝 第十三 白起(4)」の続きです。その当時、白起の死までを「史記 白起・王翦列伝 第十三(5)」として書いていたのですが、アップロードを忘れていたのです。それで今になってアップロードも変ですが、一応載せておきます。
この直前の話は、以下のとおりです。
昭王の四十九年に秦が趙を攻めたのですが、この時白起は病気で王陵というものにやらせました。ところが王陵が無能でうまく行きませんでした。この時白起の病気が治りました。そこで秦王は王陵から白起に交代させてやらせようとします。しかし白起は秦を怨む諸侯が応援に来ているし、秦の兵も闘いに疲弊しているし勝てそうもない、と反対します。しまいに病気と称して引きこもってしまいます。

さて秦王は今度は王齕(オウコツ)を使って邯鄲を包囲させますがうまく行きません。楚や魏は趙を応援して楚は春申君、魏は信陵君が秦軍を攻撃しました。秦は死傷者、逃亡者多数で失敗しました。
ここで白起は余計なことを言ったことになっています。 「秦不聽臣計,今如何矣!」 すなわち、 ”秦は私の計(はかりごと)をききいれなかったが、その結果いまはどうだ。” と言ったのです。史記では言ったとされ、それが秦王の耳に入ったとされています。
個人的には讒言のような気がしています。本当に言って告げ口されたのなら愚かしいとしかいいようがありません。
秦王は白起の言を聞いて怒って、また白起に出陣させようとしますが、重病と言って出てきません。また応侯に懇請させますが、絶対に出てきません。なぜここで怒った秦王が白起を引き出そうとするのでしょう。そんな腹立たしいことを言った男を大事な戦いの将軍として使おうというのでしょうか?それとも人選の失敗に本当に後悔して白起にやってもらおうと思ったのでしょうか?
一方、白起の態度は傍から見ればまるで意地になっているようです。出て行っても勝っても負けても殺されると思ったのかもしれません。しかし少なくとも意地を張って出て行かなかったら、殺されるのは時間の問題です。 秦王はまず白起(武安君)の位を士伍(野口さんの訳では一兵卒)とし、陰密(甘粛省)に移住させる事にしますが、白起は本当に病気らしくすぐには出発せず三ヶ月経ちます。 その後が変なのです。 「諸侯攻秦軍急,秦軍數卻,使者日至。秦王乃使人遣白起,不得留咸陽中。武安君既行,出咸陽西門十里,至杜郵。」 野口さんの訳では ”諸侯の軍が激しく秦軍を攻め立て、秦軍はしばしば退却した。そこで秦王は人々をやって白起を追い払わせ、咸陽のうちの留まることが出来ないようにした。武安君は出発して咸陽の西門を出ること十里、杜郵に着いた。” となっています。ここの部分の記述は意味が分かりません。白起が意地になって咸陽にいてもそれと諸侯の軍が秦軍に退却を余儀なくさせることとは別の話です。
秦王は群臣と諮り、結局白起に剣を賜い、自殺を命じます。 この時の白起の言葉は次のようなものです。 「我何罪于天而至此哉?」 ”私は天に対していかなる罪を犯したために、かかる結果になったのだろうか。” といい、そのあと言葉を継いで
「我固當死。長平之戰,趙卒降者數十萬人,我詐而盡阬之,是足以死。」
 ”私は元来死ぬべきなのだ。長平の戦いのとき、趙の士卒で降伏した者が数十万人あったが、わたしは謀略にかけて、これをことごとく阬(アナウメ)にした。これだけも死ななければならないのだ。”
白起は有能な将軍ではあったけれど、不思議な位、処世の術には長けていなかったようです。 宰相の応侯と不仲になったあと、趙の攻撃に反対して、あとは病気と称して出てこないだけではいいように讒言されます。知力の優れた人にしてはまずいやりかたです。 将軍として大手柄を立てている間にやった残虐行為も最後には祟っています。白起の最期にあたっての言は残虐行為の反省ですが、その残虐行為のおかげで他国で身の安全を保つのが難しいのを後悔していたのでしょうか。


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2019年9月22日日曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (4)

建安24(219)に劉備が漢中を手に入れた時に、劉備に仕える群臣が劉備に漢中王に推挙し、漢帝(献帝)に上表します。ここは
羣下、上先主爲漢中王、表於漢帝曰
とあります。推挙している人の名前が列挙されていますが、はじめの方は以下の如くなっています。
平西將軍都亭侯臣馬超、左將軍領長史鎭軍將軍臣許靖、營司馬臣龐羲、議曹從事中郎軍議中郎將臣射援、軍師將軍臣諸葛亮、盪寇將軍漢壽亭侯臣關羽、征虜將軍新亭侯臣張飛、・・・
名前の順序にどの程度意味があるのか知りませんが、先頭が馬超で、二番目が許靖なのでちょっと不思議です。因みに諸葛亮は5番目、以下関羽、張飛、黄忠と続きます。さてその推挙の文中に
曹操、階禍、竊執天衡。皇后太子、鴆殺見害、剝亂天下、殘毀民物」
という部分があります。井波さんの訳によれば
“曹操が災禍を利用して、勝手に帝権を行使いたしております。皇后や皇太子を鴆毒(チンドク)により殺害し、天下を混乱に陥れ、民衆を破滅に追い込みました。”
ということを書いております。以下曹操を非難するとともに、劉備がこれを除こうと努力したことが縷々書かれています。
許靖について言うならば、以前の彼の曹操への賛美の手紙とはえらく話が異なります。曹操は建安25年まで生きていましたから、この上表文を読んだかも知れません。読んだとしたら許靖のことをよくは思わなかったと思います。許靖が意見を変えた理由を説明している文書があれば言い分も窺えるのですが、単に劉備の漢中王推挙の上表に名を連ねるだけでは都合よく意見を変える世渡り上手な人という印象しか持てません。

劉備が漢中王になると、許靖は太傅となります。天子の師という格ですが、地位は高いが実験はないようです。
なお、建安25(220)には曹操の子の曹丕が魏の後継者となり、そしてすぐに後漢の献帝の禅譲を受けた形にして帝位を奪います。蜀には献帝が殺害されたと誤伝がはいり、劉備が蜀で帝位に就きます。
この時も臣下が多くの瑞祥が現れたと言い、帝位に就く事が天命であると説く上奏文が出されています。しかし、この上表文を奉った人の中にはあまり有名人は入っていません。
しかしそれとは別に出された上表文は、許靖、麋竺、諸葛亮等の臣下の名のもとに出されています。これには曹丕が簒奪を行い、主君(献帝)を弑したことから説き、天下が主をうしなって混乱していること、一方において瑞祥が現れて漢中王劉備こそ劉氏を継いで帝に立つべき、と述べています。
そして建安26(221)4月、劉備は帝位につきます。ここでの記述は
章武元年夏四月、大赦、改年。以諸葛亮爲丞相、許靖爲司徒。置百官、立宗廟、祫祭高皇帝以下。
です。章武は蜀の新元号です。大赦を行い、元号を改め、諸葛亮を丞相とし、許靖を司徒とし、百官を置き、宗廟を立て、高皇帝以下を廟にあわせ祭った、ということです。この新王朝のはじまりの記述で名前が挙がっているのは二人、許靖は丞相孔明に次ぐ高官になっているのです。
 章武2(222)に劉備は呉を攻めますが夷陵の戦いで大敗します。この時大敗のあとの時期に許靖は亡くなっています。

許靖の伝、およびその註で目立つのは許靖に対する賛辞です。“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(2)”で彼が交阯へのがれた時、交趾太守が手厚く待遇したことや、袁徽が荀彧宛の手紙の中で大層許靖を褒めたことはすでに述べました。
また、“三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖(3)”で、彼が蜀に入った時、宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、といった手紙の紹介があることを述べました。三国志の蜀書の許靖伝の末尾には
靖、雖年逾七十、愛樂人物、誘納後進、清談不倦。丞相諸葛亮皆、爲之拜。
とあります。井波さんの訳によれば
“70歳を越えても人物を愛し、後進を導き受け入れ、世俗を離れた議論にふけって倦むことがなかった。丞相の諸葛亮以下みな彼に対して敬意を表した。”
とのことであり、さらに
靖兄事潁川陳紀。與陳郡袁渙、平原華歆、東海王朗等親善。歆朗及紀子羣、魏初爲公輔大臣、咸與靖書、申陳舊好、情義款至。
と続きます。
“許靖は潁川の陳紀に兄事し、陳郡の袁渙、平原の華歆、東海の王朗らと親交があった。華歆・王朗および陳紀の子の陳羣は魏建国の初年に輔佐の大臣にとなったが、みな許靖に手紙を送って旧交をあたため、その友誼はきわめて厚いものがあった。”
となっています。彼は当時のインテリ社会で名高い人で、インテリ同士の文通をしていたようです。悪くとれば、蜀が滅んでも命綱を他国にもっているようにも見えます。
褒められてばかりいるが何をやったかよくわからない、毒にも薬にもならないが首尾よく出世だけはする、という風に私には見えてしまうのですが...



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2019年8月17日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (3)


前回の許靖(2)で記した彼の曹操への手紙では、旅の労苦の説明のあとで自分は交通が途絶して北へ行けない、という話が続きます。そして彼は曹操を慕っているのに曹操の下に行けなことを大変残念がっています。
この時点で彼は曹操に仕えたいと願っていたことがよくわかります。孫策に仕えなかったのは曹操に気があった所為かとさえ思います。

ところで手紙を書くということはこれが北にいる曹操の下に届くことを前提としています。どのような郵便制度あるいは郵便業があったのかは知りませんが、人が手紙を運んで受け渡しすることができているはずです。ならば自分で行けばよいのにと思ったりします。親類縁者など見捨てられないので移動は簡単でない、というのなら無理な移動はせずに孫策に仕えるべきだったでしょう。
なお曹操宛の手紙の後に次の文がついています。
翔、恨靖之不自納、搜索靖所寄書疏、盡投之于水。
ここで翔というのは前回に出てきた張翔で強引に許靖を使えさせようとした人です。張翔は許靖の拒絶を恨みに思い、許靖の出した手紙を捜査して、ことごとく水(川のこと?)に投げ込んでしまった、というのです。長々と引用されていた許靖の曹操宛の手紙はどこに残ったのでしょう。曹操に届いたのでしょうか?彼の手元に写しでもあったのでしょうか?

後に当時の蜀の支配者の劉璋が許靖を招いたので、彼は蜀に行きます。曹操あての手紙では益州にいる兄弟たちに手紙を出したがなしのつぶてで返事がないと言っていたのですが、今度は蜀へ無事に行けたようです。劉璋はよほど許靖を買っていたのでしょう。巴郡・広漢の太守にします。この記述に続き、許靖伝では宋仲子が蜀郡太守の王商に、許靖は優れた人物だから指南役にされるべきです、という手紙を書いたとの紹介があり、さらに建安十六年(211)に許靖が王商の後任として蜀郡の太守になったとあります。
建安十九年(214)先主(劉備のこと)が蜀を支配すると、許靖を左将軍長史とした、とだけあっさりと書いてあります。
しかし、ここには重大な記述が漏れています。それは龐統法正伝第七の法正伝にあります。
璋蜀郡太守許靖、將踰城降、事覺、不果。璋、以危亡在近、故不誅靖。璋既稽服、先主以此薄靖不用也。
井波さんの訳によれば劉備が成都を包囲したとき
“劉璋の蜀郡太守である許靖が城壁を乗り越えて投降しようとしたが、事が発覚して、果たさなかった。劉璋は危機が迫っているために許靖を処刑しなかった。劉璋が降伏したのち、先主はこの事件のため許靖を軽んじ起用しなかった。”
となります。
法正は劉備を説得します。「虚名ばかりで実質の伴わないものがおり、許靖がそれですがすでにその名は天下に鳴り響いています。礼遇しないと、人々は(劉備は)賢者をないがしろにする、と考えるでしょう。」と述べて許靖を厚遇するようにさせます。
劉璋配下の重職にありながら劉璋が滅ぼされようという時に自分ひとりだけ真っ先に逃げようとしたのです。劉備が買わなかったのも尤もです。
また先主伝第二には建安十九年に劉備が成都を落とした時の記述には
許靖、麋竺、簡雍、爲賓友
とあり、許靖は麋竺、簡雍とともに賓友待遇の人となっていることだけが書かれ、逃亡事件には触れられていません。





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2019年7月26日金曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (2)

許靖が会稽にいる時に孫策が攻めて来たので、同行の人々を連れて交州へ逃げます。
交州と言っても広いですが、交阯(今のベトナムに入る部分)で、当時は士燮(シショウ)が支配していました。士燮も許靖に敬意を払って手厚く待遇したそうです。
なお逃げる途中、川を渡るとき、彼は一緒についてきた者たちを先に船に乗せ皆が出発してから最後に岸を離れたので人々に大いに感心されたようです。当時袁徽(エンキ)というものが交州にいましたが、尚書令の荀彧に手紙を送った手紙の中に以下のように述べています。
・・・自流宕已來、與羣士相隨、每有患急、常先人後己。與九族中外、同其飢寒。其紀綱同類、仁恕惻隱、皆有效事。不能復一二陳之耳」
井波さんの訳によれば
“・・・故郷を離れて以来、多くの士人と一緒に行動しておりましたが、危急の事態があるといつも他人の安全を先に考え、自分は後になり、九族に及ぶ同族・姻戚の人たちと飢えや寒さをともにしておりました。その仲間たちに対する規律も、あわれみ深くいたわりがあるのですべてききめがあり、いちいちこれを列挙するのは不可能なほどです。”
許靖をたいそう褒めています。

しかし以下に次のような記述があります。
鉅鹿張翔銜 王命使交部、乘勢募靖、欲與誓要。靖、拒而不許。
“張翔というものが交部に王命により使者としてやって来て、権力にまかせて許靖を招き忠誠を誓わせようとしましたが、許靖は許さなかった”
ということです。王命というのがとくに説明がないので誰の命だかわかりません。
 そのすぐあとに許靖の曹操あての長い手紙が出てきます。この手紙をみるとこの王命とは曹操の命なのかと思います。
この手紙で彼は、”今は異民族の間に逃げ隠れしていますが、昔会稽におりましたころ、手紙を(曹操から)頂き親密な言葉を頂戴しましたが、その古い約束を今も忘れていません。”と書いてあります。既に以前にも曹操に招かれ、それに応じるつもりだったのです。
続いて書いてあることには、”乱世で自分は北へは行けず、海を渡って交州へいったのだけど、食糧が尽きて野草を食べて飢死する者が多く三分の二が死ぬありさまでした。”とあります。
やっと目的地に到着したら(曹操が)天子を迎えられ、嵩山を巡行された、という話を聞き喜んですぐに荊州に向かおうとしたら蛮族が乱をなして交通が途絶し、殺害に会い、それでもさらに進んだら風土病が盛んで伯母が死に、随行者にも被害がおよび、彼らの家族もかなり死に、十人のうち一人か二人しか生き残らなかったとあります。
さに筆舌に作りがたい労苦ですが、これについて裴松之は、許靖は会稽において旅人で民間人であるから孫策が来たからと言って危険はない。海を渡り万里のかなたへ行き、さらには風土病の地に入り老若男女に塗炭の苦しみを味わわせているが、自ら招いた禍だ、孫策に使えた人達とくらべてどちらが勝っているのか、としています。

たしかに彼は一応名士で、知り合いもあったはずで孫策の兵が来ても推挙されて、臣下に迎えられる手立てがあったのではないでしょうか。

急いで川を渡る時に、船にのる順を人に譲り、苦労している人をいたわるという意味ではよい人に見えます。しかしそれだけなら所謂婦女子の情けというもので、今、目の前の人に優しくしてあげただけで、その人達の九割方が亡くなってしまうようでは愚かな指導者と言われても仕方ありませんね。





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2019年7月20日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (1)

また三国志に戻ります。
許靖(キョセイ)をとり上げます。なぜこの人は正史に伝をたてられたのか不思議に思ったからです。
許靖は汝南郡平輿県の人で、許劭(キョショウ)従兄弟です。
この許劭の方は月旦評と呼ばれる人物評論会で有名です。毎月初めに行われるこの人物評価の会が開かれ影響力は絶大であったと言います。マスコミもネットもない時代に個人の人物批評が大きな影響力を持つのは驚きです。橋玄という人が“若い曹操に許子将(許劭)と付き合うとよい”、と勧め、曹操は許劭を訪ね、彼に受け入れられ、それから曹操の名前が知られるようになったそうです。許劭が曹操を
子治世之能臣亂世之奸雄」(君は治世にあっては能臣、乱世にあっては奸雄だ)
と評し、曹操が喜んだのは有名な話です。
後漢書にはこの許劭の伝がありますが、三国志には許劭の伝はありません。その代わり従兄弟であり蜀に仕えた許靖の方の伝が三国志の蜀書の中にあります。彼も許劭とともに有名で、人物評価で評判をたてられたのです。
ところで許劭と許靖の二人は仲が悪かったようです。
許劭に相手にされなかった許靖は
「紹為郡功曹、排擯靖、不得齒敘、以馬磨自給。」
となるのですが、ここは井波律子さんの訳では
“許劭は郡の功曹となったが、許靖を排斥してとりたてようとしなかったので、許靖は馬磨きをして自活した。”
だそうです。功曹は漢代よりあった職で官吏の採用や査定をする人で郡の人事部長です。功曹はその土地の人がなるようで、かなり強い権限があったそうです。許劭は許靖の出身地である汝南郡の功曹になったと思われます。”馬磨き”というのは浅学にしてよくわかりません。文字通りにとれば馬を磨くのでしょうが、そのような仕事で家族を養えたのでしょうか。

許劭には嫌われたにせよ、彼は世評が高かったようです。後に、劉翊(リュウヨク)という人が汝南郡の太守になると許靖を推し、結局彼は尚書郎に登用され、官吏選抜を担当するようになります。董卓が朝廷で実権を握ると周毖(シュウヒ)を吏部尚書に任じて許靖と協議して人事を行わせた、とあります。ここでの記述によれば、彼らは汚職官吏を追放し、すぐれた人材を登用したそうです。その登用の記述の最後のところに少し腑に落ちない記述があります。それは
而遷靖巴郡太守、不就、補御史中丞。」
の部分です。井波さんの訳では、
“許靖を巴郡太守に昇進させようとしたが彼は就任せず、御史中丞に任命された。”
です。この記述の前の、優れた人を太守などに任命する話の主語はどう見ても周毖と許靖です。そうするとここの部分の巴郡太守任命はお手盛りのように見えます。しかしそのあとで“彼は就任せず”、と書いてあるので、彼が太守就任を断わったように見えます。しかし、それでは前後関係がおかしいです。就任しなかったのは董卓が拒否したのかと考えています。
さて周毖らに登用され、太守に就任した者たちは赴任すると董卓が横暴だというので挙兵して董卓を誅殺しようとします。董卓は登用された人間が自分に背いてきたので、周毖に対して怒って彼を斬罪に処します。普通に考えればこの時になぜ許靖が一緒に斬られなかったのか不思議です。
もっとも許靖伝の前にある法正伝の裴松之の註によると、話は違っていて、董卓は政権を握った時は賢者を抜擢しており、許靖が官吏選抜役にあったのは董卓が都に到達する以前の話だと書いてあります。
それはとにかくとして、周毖が殺されたのを見て許靖は自分も殺されるかも知れない、と恐れ、豫洲刺史公伷(コウチュウ)の下に逃げ、公伷が死ぬと、揚州刺史の陳禕(チンイ)を頼り、彼も死ぬと呉郡都尉の許貢(キョコウ)、会稽太守の王朗などに身を寄せます。この時親類縁者や同村の人を引き取っていつくしんで生活の面倒を見た、ということです。ぞろぞろ人数をつれて押しかけて(多分地位を与えられて)世話になれるというところを見ると、彼が相当な名士であったのだろうと推定できます。





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2019年6月17日月曜日

論語(31); -君子と小人(xi)-


堯曰第二十の3では君子について以下の記述があります。これが論語の最後の文です。即ち、
「子曰、不知命,無以為君子也。不知禮,無以立也。不知言,無以知人也。」
君子の君子たるゆえんは命(天命)を知り、礼を知り、言を知っていることである、というのです。金谷治さんの本では普通の訳で特に説明もないですが、吉田賢抗さん、宇野哲人さんの訳は訳というよりは解説のような記述になっています。長くなるので堯曰第二十の3については分割して書きます。

知命の部分について、吉田さんの通訳によれば、
“天の偉大な力が万物を創造し、それにそうあるべき道理を与えたのが天命である。人は天命を知る事により、自分が天からうけたものを行いつくし、自分ではいかんとも出来ない窮達の命に対しては、信じ安んずる心構えができる。このようにまず人事を尽くしても逆境に在った場合は、天をとがめず、人を怨まず道を行うことを楽しんで安んずることができなくて、どうして君子といえようや。”
となります。
この部分は宇野さんの通釈によれば、
“人には吉凶禍福がある。これが命である。人が生まれた初めにうけたもので人の力ではいかんともすることのできないものである。人は命を知ってこれを信じ安んずれば利害に臨んでも心を動かすことがなくて、君子として愧ずかしくないのである。もし命を知ってこれに安んじなければ、害を見てはこれを避け、利をみてはこれに趨くのである。これは万一の幸いを求め苟も免れようとする小人である。どうして君子と言われようか。”
となります。

人生運不運はあるものだから仕方がない、というだけなら月並みな話ですが、それを命として受け止めて見苦しい振る舞いをしない、というのが君子だというのは、なるほどと思わせるものです。

次に知礼の部分については、吉田さんによれば、
“礼は実に人類文化の象徴である。礼を知らないと進退の宜しきは得られず、品位は保てず、立派な文化人としての行動ができない。どうして君子ということができようや。”
となり、宇野さんによれば、
“礼は己の身を取り締まるものである。人は礼を知ってこれを守れば徳性が堅く定まって自ら立つことができる。もし礼を知ってこれを守らなければ耳目も手足も拠るべき標準を失って外物の為にうごかし惑わされる。どうして自らたつことが出来よう。”
となります。
しかし、どちらの解釈でも今一つ分かりません。むしろ人間関係を円滑にし、社会秩序を維持する規範としての礼を知らないのは君子ではない、と言ってくれれば分かりやすいのですが





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2019年6月3日月曜日

論語(30); -君子と小人(x)-


さて孔子は、子張が一番目の美の「惠而不費」とはどういうことですか、と質問したのに対し五美すべてについて説明しています。
「因民之所利而利之,斯不亦惠而不費乎?擇可勞而勞之,又誰怨?欲仁而得仁,又焉貪?君子無眾寡,無小大,無敢慢,斯不亦泰而不驕乎?君子正其衣冠,尊其瞻視,儼然人望而畏之,斯不亦威而不猛乎?」

ここは金谷治さんの訳では
“人民が利益としていることをそのままにして利益に得させる、これこそ恵んでも費用をかけないということではなかろうか、自分で骨を折るべきことを選んでそれに骨折るのだから、一体だれを怨むことがあろう。仁を求めて仁を得るのだから、一体何を貪ることがあろう。上に立つ者が(相手)の大勢小勢や貴賤にかかわりなく決して侮らない。これこそゆったりしていても高ぶらないことではなかろうか。上に立つものがその服や冠を整え、その目のつけかたを重々しくして、いかにもおごそかにしていると、人々はうちながめて恐れ入る、これこそ威厳があっても烈しくないことではなかろうか。”
となっています。

これに対して吉田賢抗さんの訳では
“民が自分たちの利となると思うことによって民に利を与えていく。つまり民が農業開発とか山林開発を利とするなら、それに都合のよいような政治をすれば、これが恵にして費やさずということになるではないか。人民を使役するだけの理由が十分ある事柄で民に骨折らせれば、人民は喜んで働いて誰も怨むことがない。たとえば、水害に苦しむ民に、水防工事をさせたら、誰を怨むことがあろうや。又君子の欲するところが正しい道であって、仁なら仁道を得たいと欲したら、伯夷と叔斉が仁を求めて仁を得たように、民心が仁道に向かって作興されれば、これ以上何をむさぼる必要があろうか。又君子は相手が大勢でも小人数でも、事が大きくても小さくても、かかわりなく、又相手をあなどり馬鹿にすることなく、常にゆったりとして、しかも謙虚だから、これはまた泰にして驕らずということではないか。又君子は衣冠を正しく身につけ、目のつけどころに心を用いてキョロキョロしないから、その容子が厳然となって、人が望み見て、おのずから畏敬の念を生じる。これが威あって猛からずということではなかろうか。以上のことが五美というものである”
となります。かなり丁寧に意訳されている感じです。

これらに対して宇野哲人さんの訳では
“山や水には自然物が算出する。これは民の利となるものである。これらの民の利となる物について適当な制度を設けて民の利として饑寒を免れさせるようにすれば、これは恵みを与えても己の財が費えないのではないか。民を使うにあたっては国利民福を増進しかつ民が労働に堪えるような仕事を択んで民を労働させるならば民は歓んでこれに服してまた誰を怨むことがあろう。己の仁徳を天下に及ぼすことを欲してその仁徳を尽くすことができたのであって、民から一毫も取るのではないから、どうしてまた貪るいわれよう。君子は人の衆寡、事の大小を論ぜず、敬を主として敢えて慢(あなど)ることがない。これはまた泰然自得して驕り肆(ほしいまま)ではないではないか。君子は身に著つける衣や冠を端正にし、外にあらわれる瞻視の容(物をみる様子)を尊びつつしみ、身を持つこときびしくて、人が望み見て畏敬するのである。これは威厳があってあらあらしくないのではないか。“
となります。さらに意訳が進んでいます。

結局“五美”のどこが分かりにくいかというと、子張が質問した「惠而不費」という表現なのだと思います。他は特別目立つ言とは思えません。
元来政治をするものが個人の財産をつかって福祉をしろ、というのは普通は無理な話ですから、恵みを与えるというのは施策を通じてであり、施策の中身は説明によれば農業や手工業を奨励し盛んにすることになのでしょう。そうなると、費えがない、というのは個人の財ではなくて政府の支出と考えるのが自然に見えます。そしてそういうことで納得すると、この説明全体が大した内容でない気がしてくるのがちょっと残念です。






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