2019年7月26日金曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (2)

許靖が会稽にいる時に孫策が攻めて来たので、同行の人々を連れて交州へ逃げます。
交州と言っても広いですが、交阯(今のベトナムに入る部分)で、当時は士燮(シショウ)が支配していました。士燮も許靖に敬意を払って手厚く待遇したそうです。
なお逃げる途中、川を渡るとき、彼は一緒についてきた者たちを先に船に乗せ皆が出発してから最後に岸を離れたので人々に大いに感心されたようです。当時袁徽(エンキ)というものが交州にいましたが、尚書令の荀彧に手紙を送った手紙の中に以下のように述べています。
・・・自流宕已來、與羣士相隨、每有患急、常先人後己。與九族中外、同其飢寒。其紀綱同類、仁恕惻隱、皆有效事。不能復一二陳之耳」
井波さんの訳によれば
“・・・故郷を離れて以来、多くの士人と一緒に行動しておりましたが、危急の事態があるといつも他人の安全を先に考え、自分は後になり、九族に及ぶ同族・姻戚の人たちと飢えや寒さをともにしておりました。その仲間たちに対する規律も、あわれみ深くいたわりがあるのですべてききめがあり、いちいちこれを列挙するのは不可能なほどです。”
許靖をたいそう褒めています。

しかし以下に次のような記述があります。
鉅鹿張翔銜 王命使交部、乘勢募靖、欲與誓要。靖、拒而不許。
“張翔というものが交部に王命により使者としてやって来て、権力にまかせて許靖を招き忠誠を誓わせようとしましたが、許靖は許さなかった”
ということです。王命というのがとくに説明がないので誰の命だかわかりません。
 そのすぐあとに許靖の曹操あての長い手紙が出てきます。この手紙をみるとこの王命とは曹操の命なのかと思います。
この手紙で彼は、”今は異民族の間に逃げ隠れしていますが、昔会稽におりましたころ、手紙を(曹操から)頂き親密な言葉を頂戴しましたが、その古い約束を今も忘れていません。”と書いてあります。既に以前にも曹操に招かれ、それに応じるつもりだったのです。
続いて書いてあることには、”乱世で自分は北へは行けず、海を渡って交州へいったのだけど、食糧が尽きて野草を食べて飢死する者が多く三分の二が死ぬありさまでした。”とあります。
やっと目的地に到着したら(曹操が)天子を迎えられ、嵩山を巡行された、という話を聞き喜んですぐに荊州に向かおうとしたら蛮族が乱をなして交通が途絶し、殺害に会い、それでもさらに進んだら風土病が盛んで伯母が死に、随行者にも被害がおよび、彼らの家族もかなり死に、十人のうち一人か二人しか生き残らなかったとあります。
さに筆舌に作りがたい労苦ですが、これについて裴松之は、許靖は会稽において旅人で民間人であるから孫策が来たからと言って危険はない。海を渡り万里のかなたへ行き、さらには風土病の地に入り老若男女に塗炭の苦しみを味わわせているが、自ら招いた禍だ、孫策に使えた人達とくらべてどちらが勝っているのか、としています。

たしかに彼は一応名士で、知り合いもあったはずで孫策の兵が来ても推挙されて、臣下に迎えられる手立てがあったのではないでしょうか。

急いで川を渡る時に、船にのる順を人に譲り、苦労している人をいたわるという意味ではよい人に見えます。しかしそれだけなら所謂婦女子の情けというもので、今、目の前の人に優しくしてあげただけで、その人達の九割方が亡くなってしまうようでは愚かな指導者と言われても仕方ありませんね。





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