2019年7月20日土曜日

三国志 魏書;許麋孫簡伊秦伝第八 許靖 (1)

また三国志に戻ります。
許靖(キョセイ)をとり上げます。なぜこの人は正史に伝をたてられたのか不思議に思ったからです。
許靖は汝南郡平輿県の人で、許劭(キョショウ)従兄弟です。
この許劭の方は月旦評と呼ばれる人物評論会で有名です。毎月初めに行われるこの人物評価の会が開かれ影響力は絶大であったと言います。マスコミもネットもない時代に個人の人物批評が大きな影響力を持つのは驚きです。橋玄という人が“若い曹操に許子将(許劭)と付き合うとよい”、と勧め、曹操は許劭を訪ね、彼に受け入れられ、それから曹操の名前が知られるようになったそうです。許劭が曹操を
子治世之能臣亂世之奸雄」(君は治世にあっては能臣、乱世にあっては奸雄だ)
と評し、曹操が喜んだのは有名な話です。
後漢書にはこの許劭の伝がありますが、三国志には許劭の伝はありません。その代わり従兄弟であり蜀に仕えた許靖の方の伝が三国志の蜀書の中にあります。彼も許劭とともに有名で、人物評価で評判をたてられたのです。
ところで許劭と許靖の二人は仲が悪かったようです。
許劭に相手にされなかった許靖は
「紹為郡功曹、排擯靖、不得齒敘、以馬磨自給。」
となるのですが、ここは井波律子さんの訳では
“許劭は郡の功曹となったが、許靖を排斥してとりたてようとしなかったので、許靖は馬磨きをして自活した。”
だそうです。功曹は漢代よりあった職で官吏の採用や査定をする人で郡の人事部長です。功曹はその土地の人がなるようで、かなり強い権限があったそうです。許劭は許靖の出身地である汝南郡の功曹になったと思われます。”馬磨き”というのは浅学にしてよくわかりません。文字通りにとれば馬を磨くのでしょうが、そのような仕事で家族を養えたのでしょうか。

許劭には嫌われたにせよ、彼は世評が高かったようです。後に、劉翊(リュウヨク)という人が汝南郡の太守になると許靖を推し、結局彼は尚書郎に登用され、官吏選抜を担当するようになります。董卓が朝廷で実権を握ると周毖(シュウヒ)を吏部尚書に任じて許靖と協議して人事を行わせた、とあります。ここでの記述によれば、彼らは汚職官吏を追放し、すぐれた人材を登用したそうです。その登用の記述の最後のところに少し腑に落ちない記述があります。それは
而遷靖巴郡太守、不就、補御史中丞。」
の部分です。井波さんの訳では、
“許靖を巴郡太守に昇進させようとしたが彼は就任せず、御史中丞に任命された。”
です。この記述の前の、優れた人を太守などに任命する話の主語はどう見ても周毖と許靖です。そうするとここの部分の巴郡太守任命はお手盛りのように見えます。しかしそのあとで“彼は就任せず”、と書いてあるので、彼が太守就任を断わったように見えます。しかし、それでは前後関係がおかしいです。就任しなかったのは董卓が拒否したのかと考えています。
さて周毖らに登用され、太守に就任した者たちは赴任すると董卓が横暴だというので挙兵して董卓を誅殺しようとします。董卓は登用された人間が自分に背いてきたので、周毖に対して怒って彼を斬罪に処します。普通に考えればこの時になぜ許靖が一緒に斬られなかったのか不思議です。
もっとも許靖伝の前にある法正伝の裴松之の註によると、話は違っていて、董卓は政権を握った時は賢者を抜擢しており、許靖が官吏選抜役にあったのは董卓が都に到達する以前の話だと書いてあります。
それはとにかくとして、周毖が殺されたのを見て許靖は自分も殺されるかも知れない、と恐れ、豫洲刺史公伷(コウチュウ)の下に逃げ、公伷が死ぬと、揚州刺史の陳禕(チンイ)を頼り、彼も死ぬと呉郡都尉の許貢(キョコウ)、会稽太守の王朗などに身を寄せます。この時親類縁者や同村の人を引き取っていつくしんで生活の面倒を見た、ということです。ぞろぞろ人数をつれて押しかけて(多分地位を与えられて)世話になれるというところを見ると、彼が相当な名士であったのだろうと推定できます。





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