2020年10月26日月曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(8) -王皇后(iii)-

 王皇后が立てられて9年後、景帝が没し、王皇后の子()が帝位に就きます。これが歴史に名高い武帝です。王皇后は景帝の死後、皇太后になったのですが、皇太后の母親の臧児が平原君になります。父親の王仲は追尊され共侯となります。これだけなら驚かないですが、皇太后の父親の王仲が死んだあと、臧児が田という男と再婚して生まれた田蚡(デンフン)、田勝(デンショウ)さえもそれぞれ武安侯、周陽侯に封じられます。田蚡、田勝は貪欲で文辞に巧みであったと言います。田蚡はなんと丞相にまでなっています。

さらに、皇太后はもともと金王孫に嫁していたのを、母親の臧児が無理やり当時太子だった景帝の後宮に入れたと前に書きましたが、すでに金王孫との間に俗(ゾク)という娘がいました。この俗は民間に隠れていたのですが、父親の異なる弟である武帝はわざわざ迎えに出かけ、銭一千万、奴婢三百人、公田百頃、邸宅が(俗に)与えられた、と言います。一頃は百畝で凡そ670アールといいますから、かなりの土地です。そのあと

因賜湯沐邑,號修成君

と記述があります。小竹さんの訳では、

“よって湯沐の邑を賜い、修成君と号した”

とあります。

なお「君」とは前漢以降は女性の称号で、上に書いた平原君のごとく皇后の母親が冊封されることが多かったようです。また非皇族の女子にも用いられるようで、修成君もそれにあたります。

さて俗が修成君に封ぜられるのはよいですが、湯沐の邑というのは化粧料をまかなう邑というのです。先の光田百頃とは別に上乗せなのでしょうか?

さらに俗には男女の子供があり、女は諸侯に嫁しました。男の方はというと

男號修成子仲,以太后故,橫於京師

小竹さんの訳では

“修成子仲と号し、太后をかさにきて京師を横行した”

というありさまで碌な男ではなかったようです。母親の称号を使って修成君の子である仲を名乗って威張り散らしていたのでしょうが、具体的に愚行醜行は書いてありません。いずれにせよこんな手合いにも外戚の恩沢がいきわたっていたのです。国家は天下の人の国家ではなく、皇帝の私物であり、その結果外戚はとにかく甘い汁が吸えるようです。




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2020年10月11日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(7) -王皇后(ii)-

 前回、栗姫の生んだ皇太子である栄に、長公主が自分の娘を押し付けようとして断られた話を書きましたが、今度は長公主は娘を王夫人の息子にやる、という話を持ち掛けました。王夫人はこれを受け入れたのです。長公主を敵に回したくないという考えもあったとおもいます。

薄皇后が廃されたのがこの頃で、長公主は盛んに景帝に栗姫を讒言します。

そんな状況の中で栗姫は愚かなことをしてしまいます。

景帝嘗屬諸姬子,曰:「吾百歲後,善視之。」栗姬怒不肯應,言不遜,景帝心銜之而未發也。

とあります。小竹さんの訳によれば

“景帝は自分もかつては諸姫(‘めかけ’とルビがあります)の腹に生まれた子の境遇にあったので「わしの死後、太子を良く視てほしい」といった。栗姫は怒って、そのこころづかいに応えようとせず、言葉も不遜だったので、景帝は内心このことをふくみながらも、まだ表面にはあらわさなかった。”

とあるのです。

訳文にちょっと抵抗があります。“吾百歲後”は、死んだあと、でよいのでしょうが、“之”が問題です。ここで景帝は自分の庶子の身分を心配しているのですから、“善く之を視よ”の之とは現在庶子である王氏の息子(後の武帝)を指すはずです。太子と訳するのは何か変ですね。栗姫はそれに対して冷たい回答をしたのですから、景帝が死んだあと太子栄(栗姫の息子)が帝位に就いたら皇太后になる栗姫の意向で王氏の子供はどんな目にあうか分かりません。これは景帝を不安、不快にさせます。栗姫は腹立ちまぎれに大変愚かな態度を景帝に対してとってしまったことになります。

一方で長公主は景帝に王夫人の子供のことを褒め、景帝も息子を賢いと思います。ここで王夫人が策を弄するのです。すなわち

王夫人又陰使人趣大臣立栗姬為皇后。

“王夫人はまたひそかに人を使い、大臣たちに栗姫を立てて皇后とするよう促した。”

とあります。王夫人はかつて呂后が高祖に寵愛された戚夫人に対し高祖の死後何をしたかは知っている筈です。大臣が帝を促して本当に栗姫が皇后になり、その子の栄が帝位についたら身の危険を招きます。おそらく景帝の気持ちをすでに知っていて仕上げでやったのでしょう。何も知らない大行(賓客の接待を司る官)が今の太子()の母(栗姫)を皇后にすべきでしょう、と奏上し、景帝を怒らせ“お前が言うべきことなのか”と言われて誅殺されてしまいました。可哀そうなものです。そして太子であった栄は廃されて臨江侯になり栗姫は帝に会えぬまま憂死します。王夫人が皇后となり、その子が皇太子になりました。

そうなると新たに外戚の恩恵に与れる者がいろいろと出てきます。皇后の兄の信は蓋侯(コウコウ)となります。妹も宮廷にはいり男子4人を生み、それらはいずれも王になりました。王皇后の生んだ娘たちも平陽公主、南宮公主、隆慮公主となります。




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2020年10月8日木曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(6) -王皇后(i)-

 景帝の皇后となった薄氏には子供ができなかったのは前回書いた通りです。

しかし景帝には息子が14人もいました。すべて側室が生んだ訳です。そして薄氏の廃せられたあと皇后の空位時代がつづきました。景帝の時代に呉楚七国の乱がおきたのですが、そのあとで景帝は栗姫(リツキ)の生んだ栄を皇太子にたてました。栄は景帝の最年長の息子です。ならば皇太子を生んだ栗姫を皇后に立てたかというと立てませんでした。栗姫は非常にストレスがたまった訳です。誰かほかの女に気持ちが行ったのではと不安になったかも知れません。

 

ここで外戚伝 第六十七上(3)の竇皇后(i)に登場した竇皇后の長女である(館陶長公主)が登場します。彼女は景帝の姉です。これが禄でもない小姑で、景帝に次から次への女の子を紹介します。一方では嫖は女の子がいたのですがそれを栄の太子に押し付けようとします。ここで競争相手を次々に送り込んでいる長公主(=館陶長公主)に腹をたてていた栗姫はこの話を断ります。これが失敗でした。この時代ですから、名目上の御妃様にして、本当に寵愛するのは別の女、ということができないわけではなかったのに拒絶したのです。そのことがあとに災いをもたらします。

 

ところで景帝の跡継ぎとなる武帝を生んだのは王夫人(のちの皇后)です。武帝が太子になる過程ではどろどろした女の争いが絡んでいます。

王夫人の父は王仲(オウチュウ)、母は臧児(ゾウジ)でした。臧児は一男二女を生みました。王仲が死ぬと田氏と再婚し男子二人を生みました。

ところで臧児の長女は金王孫という者の妻になり一女を生みました。そのあと漢書にはこんなことが書いてあります。

而臧兒卜筮曰兩女當貴,欲倚兩女,奪金氏。金氏怒,不肯與決,乃內太子宮。

小竹さんの訳によれば

“臧児が占ったところ、娘は二人とも貴い身分なるはずだというので、この二人にたよろうと思い、長女を金氏から奪い返した。金氏は怒って、離別を承知せず、そこで(長女を)太子(のちの景帝)の宮に入れた。”

というのですから驚きです。怒って離婚を承知しないのを無視して娘を東宮に入れたというのですが、どういう縁故でそんなことができるか不思議ですし、こんな話で大人しく母親の言いつけに従った娘も現代人の感覚からは不思議です。

臧児の目論見が当たって太子はこの王仲の長女を寵愛し、三女一男が生まれます。男の子を身ごもったとき王氏は太陽が懐に入った夢を見て太子に話したそうです。これを聞いて太子は“此貴徵也。(それは貴い徴だ)”と言ったそうです。皇帝になる子を生む前に妃が、太陽がお腹に入った夢を見た、という話はいくらも出てくる話です。このころすでにその手の話は一般に流布していて、もしい男の子なら後継ぎに相応しいと王夫人は訴えたかったのかも知れません。のちの後宮での暗闘のゴングを鳴らしたみたいですね。

そして王夫人は男の子の出生するのですが、出生前に太子の父の文帝が亡くなり、太子は景帝として皇帝の位を継ぎます。それでもすでに栗姫の生んだ栄が皇太子ですから、王夫人の生んだ子は太子になれる訳ではありません。栄が引きずりおろされるのですが、それには長公主と王夫人が関与します。




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2020年10月4日日曜日

漢書;外戚伝 第六十七上(5) -竇皇后(iii) 薄氏(追補)

 竇皇后関係ではまだ偉くなった人がおります。竇皇后の従昆弟(小竹さんの訳では“いとこ”と振り仮名されています。)の竇嬰(トウエイ)で、魏基侯に封ぜられています。外戚としての竇氏から侯になれたのは竇氏の兄弟二人と従昆弟一人の合計三名です。

もっとも竇嬰の場合は、初めは竇太后に疎まれて遠ざけられていました。疎まれた原因は合伝である竇田灌韓伝第二十二に出ています。なおこの竇田灌韓伝第二十二では竇嬰は竇皇后の従兄弟の子と書かれています。

さて竇太后は景帝の母ですが、景帝の弟である梁の孝王をとてもかわいがっていました。景帝がまだ太子を立てていなかったころ、景帝は酒宴で気まぐれに、自分のあとの位を譲ろう、と言います。これは専制君主としては非常に軽率な発言というものです。でも竇太后はこの景帝の言を喜びました。

しかし竇嬰はこれをとがめて、天下は高祖のものであり、父子相伝が漢の決まりであります。どういう根拠で梁王に伝えることができるのですか、と言いました。このことで竇太后は竇嬰を憎んだのだそうです。

さて、呉楚七国の乱が起こったとき景帝が宗室、外戚の人材の中で竇嬰が優れているとみて大将軍に登用しました。竇嬰もこれにこたえて人材を登用し、乱の鎮圧に功により魏基侯になったので、あながち皇后の血筋だけで侯になったというものでもないです。

竇嬰は武帝の代になっては丞相にもなりましたが政治上の争いに巻き込まれ結局誅殺されています。

 

以前呂氏が滅ぼされた時に皇帝として代王が選ばれ文帝として立つことができたのは、母の薄氏の実家が勢力家ではなく、薄氏自身も影の薄い人だったということからでした。しかしその影の薄い薄氏(薄太后)も自己主張をしたのです。文帝の子供の景帝(薄太后から見れば孫)の妃に実家の薄家の女を選ぶことを強く望んだのです。薄氏は自分の実家から皇后を出したかったのです。

しかしこれは不幸な結果を生みました。その選ばれた女性は皇后に立てられたのですが、景帝に寵愛されることもなく、子供もできませんでした。後ろ盾の薄太后が亡くなると、皇后を廃せられてしまいます。彼女には外戚家のメリットなどなく、みじめな運命を負わされたのではないでしょうか。




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漢書;外戚伝 第六十七上(4) -竇皇后(ii)-

 さらに竇皇后の兄弟が被る恩恵があります。

竇姫はもともと良家の娘として呂后に選抜されたはずなのですが、その後の記述では竇皇后の兄である長君(おそらく字と思います。本名は書いてありません。)、その弟の広国、字は少君は微賤の身分の者として登場します。

 

広国は四、五歳のころさらわれたも同然で人に売られたのです。そして広国は諸家を転々とし、宜陽では山に入って炭焼きをしていたそうです。崖の下で夜数百人が寝ていたら崖がくずれ、広国一人がたすかります。広国は自分のことを占ったら数日のうちに列侯になるはず、と出たのです。広国について記述されている四、五歳からのひどい運命からして、字をまなび書籍を読み、占いも知っていたことになっているのは奇異に思えます。でも原文でみると

「自卜,數日當為侯」

とのことです。誰か人相見が現れてお告げをするなどといったことではなく、自分で占いができたのでしょう。

それから主家に従って長安へ行くと、新しい皇后が立てられその家は観津(カンシン)にあり姓は竇氏であることを知ります。広国は家を離れた時幼かったのですが、出身県と姓は覚えていたので、姉と一緒に桑の葉を採っている時に木から落ちたことを証拠として(もしかして竇姫は姉ではないかと)上書します。そのあとに次の分があります。

皇后言帝,召見問之,具言其故,果是。

小竹さんの訳によれば、

“皇后から帝に申し、少君(広国)を召し出して問うと、少君はつぶさにその故を述べたが果たしてその言う通りだった。”

です。竇皇后の記憶のとおりだったのでしょう。さらに念押しで覚えていることを聞くと

姊去我西時,與我決傳舍中,沐沐我,已,飯我,乃去

と言います。すなわち、姉は自分が西へ去るとき、自分と伝舎(駅舎)で別れた。私の体を洗って、ご飯を食べさせてくれてから去っていった、というのです。

それは二人きりしか知らないことで、間違いなく弟だと知った竇皇后は少君を抱いて泣きました。

広国はめでたく手厚い待遇を受けるようになりました。竇皇后の兄の方の長君についてはとくに記述がないのですが、これも手厚い待遇を得たはずです。文帝がなくなり、景帝が即位すると、竇皇后は皇太后になり、広国は章武侯になりました。この時兄の長君は亡くなっていましたが、子供が南皮侯になっています。

 




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