2014年8月24日日曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(6)



関羽はその後、樊にいる曹仁を攻撃しますが、曹操が于禁を救援に差し向けます。この于禁という将軍は三国志演義ではさほどの将軍として描かれていませんが、正史(魏書 張樂于張徐伝 第十七)にある于禁伝では非常に優秀、勇猛な将軍で手柄も沢山立てております。しかしこの救援は大失敗で、長雨のために漢水が氾濫し、于禁の軍は水の中に孤立します。そして于禁は関羽に降伏するはめになります。于禁が猛将であったが故に、これを捕えたことは関羽の名を大いに挙げることになると思われます。
ここに至って正史では次の記述があります。
「羽威、震華夏。曹公、議徙許都以避其。司馬宣王、蔣濟以爲「關羽得志、孫權必不願也。可遣人勸權躡其後、許割江南以封權。則樊圍自解」曹公從之。」
井波さんの訳では
“関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬宣王(司馬懿)と蔣済は、関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから、使者をやって、その背後を突かせるように孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、そうすれば樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。曹操はそれに従った。”
となっています。
短い間ですが、曹操が都を移そうという議論をするほどに関羽の勢いは盛んだったわけです。
しかしこの成功のあとで関羽には急速な没落と死が待っています。

一つ目の原因は上にある、孫権に背後を突かせる計略です。さらっと書いてありますが、“長江以南の孫権の領有権を認める”とはおおきなエサですね。
関羽にとって対孫権については下地となる悪条件があります。孫権が使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者をどなりつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた、というのです。
この点はやや関羽は気の毒な事情にあります。怒って孫権の使者に侮辱を与えたことは、必要なパフォーマンスだったのではないでしょうか。そもそもこの縁談は微妙な要因を含む話です。この時点で孫権の息子の嫁に娘を出して姻戚になることなどできない話です。むしろ関羽はそんな縁談が劉備に聞こえることも嫌だったはずです。
逆に孫権にとっては駄目を承知の縁談で嫌がらせをしていたのかも知れません。

もう一つは日頃の態度が原因で部下の裏切りにあうことです。麋芳が江陵、傅士仁が公安にいましたが、この両名はかねてから関羽が自分達を軽んじていると嫌っていました。そして関羽に非協力で、その結果関羽もこの両人を憎んでいました。
こうなると麋芳も傅士仁も関羽にどのような目に会わされるかわからないので不安になります。そこに孫権がつけこみます。孫権は内々にこの両人に誘いをかけ、両人は孫権を迎え入れます。
張飛伝の終りの部分に、関羽は兵卒を厚遇したが士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった、とあります。この二人のどちらも人を使うという意味では欠けるところがあったということでしょう。関羽の態度は一見格好良さそうではありながら、結局禍を招いたようです。





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2014年8月17日日曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(5)



正史で次にでてくるのは三国志演義でもおなじみの矢傷の治療です。
関羽はある時流れ矢で左肘を貫通され、傷が治ったあとでも曇りの日や雨の日に骨が疼いたと言います。医者が矢に毒が塗ってあったので、毒が骨に浸み込んでいるから、肘を切り裂いて骨をけずり、毒を取り除けば治るというと、ちょうどその時宴会中であったがすぐに医者に切開させた、とあります。この場面は正史によれば
「羽便伸臂、令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對、臂血流離、盈於盤器。而羽割炙引酒、言笑自若。」
とあります。井波さんの訳によれば
“関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。ちょうどその時、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。肘の血は流れ出して、大きな皿一杯に血は流れたが、関羽は焼肉を切り分け、酒を引き寄せて、泰然として談笑していた。”
となります。
宴会をして酒を飲んでいるときに医者を呼ぶのも変ですし、酒を飲みながらすぐに切開手術をさせたという乱暴な話ですね。関羽が矢傷を治療させたのは本当でしょうが、このままでは関羽の強さを過大に述べていて俄かには信じられません。

この話は演義では第七十四囘の末尾から第七十五囘の初めにわたり、さらに潤色されて長く述べられています。第七十四囘の末尾で関羽は曹仁が指示した射手によって(左肘ではなく)右肘を射当てられ落馬します。第七十五囘の冒頭で関平らがこれを救い出して帰陣し矢を抜き取りますが、毒が骨にまで浸み込んで右肘は青く腫れ上がり動かすこともできなくなります。そこで部下たちは、この時の関羽の本拠地である荊州へいったん帰ることを勧めますが関羽は聞きません。しかし傷が痛むことは傷むので医者を探させます。そこへ華陀という名医が現れます。
華陀は関羽に、とりかぶとの毒が骨に浸み込んでいるから肘を切開して骨を削り取る必要がある、と説きます。華陀は切開手術について
當於靜處立一標柱、上釘大環、請君侯將臂穿於環中、以繩繫之、然後以被蒙其首。
吾用尖刀割開皮肉、直至於骨、刮去骨上箭毒、用藥敷之、以線縫其口、方可無事。
但恐君侯懼耳。」
即ち、
“静かなところに柱を一本立てて鉄の環をとりつけ、その環に肘を通し縄で縛り、布で
顔を隠していただく。私は鋭い小刀で肉を切り裂き、骨に着いた鏃の毒を削り取った上、
薬をぬり、糸で縫い合わせれば、大丈夫です。気おくれされませぬか。”
と説明します。それに対し関羽は
公笑曰、『如此、容易!何用柱環?』令設酒席相待
“関羽は笑って「それだけなら環つきの柱など要らない。」と言った。そして酒席を設
けてもてなした。”
と対応します。
そして関羽は酒を数杯飲んだところで、馬良に碁の相手をさせながら華陀に肘を切り裂
かせています。切開手術は無事終わり、関羽は華陀に黄金百両をだしますが、華陀は御
礼を断って去ります。現在の中国の単位なら百両は5 kgですから2350万円位ですね。

ちなみに華陀は正史の魏書 方枝伝 第二十九にも出てきます。しかし正史の華陀伝には関羽を治療したという記述はありません。

歴史の本当ではなさそうな記述に厳しい目を向ける裴松之もなぜか、この関羽の矢傷の治療についての正史の信じがたい記述には何も述べておりません。ここで肉を切り、骨を削る治療は痛すぎて、(関羽が常人以上に傷みに堪えたにせよ)宴会で酒を飲みながら受けられるものではない、などと文句をいうのもつまらない事と考えたかも知れませんね。





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2014年8月11日月曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(4)



関羽は劉備のところに戻ったのですが、当時劉備は袁紹のもとにおりました。その後曹操は袁紹を攻撃、撃破しました。そしてさらに劉備も攻撃しました。劉備は荊州の劉表のところへ行きました。よって関羽もそれに従って荊州に行きました。このあたりの経緯を関羽伝では
「從先主就劉表。」
と書いているだけです。

この後の記述は次のようです。
「表卒、曹公定荊州、先主、自樊、將南渡江。別遣羽、乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相、共至夏口。孫權遣兵、佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。」
です。井波さんの訳によれば
“劉表が死去すると、曹公が荊州を平定しようとした。先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、関羽には別に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って漢津に行き、丁度関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した。孫権は軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き撤退した。」
となっていて赤壁の戦いもあっさりかかれています。本筋は先主伝に書いたので、ここは簡略に、というところでしょうか。
続いて三国志演義にもある関羽の馬超についての問い合わせの話が出てきます。彼はあらたに来降した馬超の人物・才能を問い合わせる手紙を諸葛亮に出します。これについて、関羽伝には次のように書かれています。
「亮、知羽護前、乃答之曰「孟起、兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥彭之徒。當與益德並驅爭先、猶未及髯之倫、逸羣也」羽美鬚髯、故亮謂之髯。羽省書大悅、以示賓客。」
井波さんの訳によれば、
“諸葛亮は、関羽が負けず嫌いなのを知っていたから、これに答えて「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、鯨布や彭越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはり髯どのの比類なき傑出ぶりにはおよばない」といってやった。関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。関羽は手紙を見て大喜びして、来客に見せびらかせた。”
となっています。
この経緯だと関羽はなんだか子供じみているように見えます。

三国志演義第六十五囘だと、関羽はもう少し馬鹿げた連絡をしてきます。すなわち息子の関平が使者で荊州から成都にやってきて
「父親知馬超武藝過人、要入川來與之比試高低。敎就稟伯父此事。」
“父は馬超どのの武芸ひいでたる由を聞き、西川へまいって試合をして見たいと申して
おり、この由伯父上にお伝えいたすよう申し付けられてまいりました。”
というのです。
これに対して諸葛亮が回答します。
「亮聞將軍欲與孟起分別高下。以亮度之、孟起雖雄烈過人、亦乃黥布・彭越之徒耳。當與翼德並驅爭先、猶未及美髯公之倫超羣也。今公受任守荊州、不爲不重。倘一入川、若荊州有失、其罪莫大焉。惟冀明照。」
“承れば、将軍、馬超と優劣を争わんと欲すと。思うに馬超は武勇に優れた者とはいえ、鯨布、彭越のともがらに似て、翼徳(張飛)がよき相手とならんも、美髯公の抜群の才には何條およぶべき。今、公の荊州守護の任は極めて重し。もし西川に入りて荊州に万一のあやまちあれば罪これより大なるはなし。明察を請う。”
ということです。そこで関羽はその手紙を幕僚に回覧し
「孔明知我心也。」
つまり
“孔明殿はよくわが心を知るは。”
と言います。
立間祥介さんの訳本ではこの話について註に毛宗崗の評を入れています。関羽は本気で試合をしようとしたわけではない。漢の高祖がはじめて鯨布に会ったとき足を洗わせながら挨拶もしなかったのは、彼がおごり高ぶって手に負えなくなるのを恐れたからである。同様に馬超は降参して来たのに西川の諸将に自分の右にでる者がない、とうぬぼれるのを免れない。そこで翼徳の上に関羽のような人がいるということを理解せしめておごりの心を挫いたのである、と説明しています。

類似のエピソードですが、演義の話だと関羽はそれほど子供じみて見えません。

真相はわかりません。しかし私が推し量るに、実際は正史ほどには子供じみておらず、演義ほどに政治的でもなく、プライドが高くて馬超の頭を抑えたかったのではないか、という気がします。






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