2014年8月11日月曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(4)



関羽は劉備のところに戻ったのですが、当時劉備は袁紹のもとにおりました。その後曹操は袁紹を攻撃、撃破しました。そしてさらに劉備も攻撃しました。劉備は荊州の劉表のところへ行きました。よって関羽もそれに従って荊州に行きました。このあたりの経緯を関羽伝では
「從先主就劉表。」
と書いているだけです。

この後の記述は次のようです。
「表卒、曹公定荊州、先主、自樊、將南渡江。別遣羽、乘船數百艘會江陵。曹公追至當陽長阪、先主斜趣漢津、適與羽船相、共至夏口。孫權遣兵、佐先主拒曹公、曹公引軍退歸。」
です。井波さんの訳によれば
“劉表が死去すると、曹公が荊州を平定しようとした。先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、関羽には別に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って漢津に行き、丁度関羽の船と出会って、いっしょに夏口に到達した。孫権は軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は軍を引き撤退した。」
となっていて赤壁の戦いもあっさりかかれています。本筋は先主伝に書いたので、ここは簡略に、というところでしょうか。
続いて三国志演義にもある関羽の馬超についての問い合わせの話が出てきます。彼はあらたに来降した馬超の人物・才能を問い合わせる手紙を諸葛亮に出します。これについて、関羽伝には次のように書かれています。
「亮、知羽護前、乃答之曰「孟起、兼資文武、雄烈過人、一世之傑、黥彭之徒。當與益德並驅爭先、猶未及髯之倫、逸羣也」羽美鬚髯、故亮謂之髯。羽省書大悅、以示賓客。」
井波さんの訳によれば、
“諸葛亮は、関羽が負けず嫌いなのを知っていたから、これに答えて「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は人なみはずれ、一代の傑物であり、鯨布や彭越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、やはり髯どのの比類なき傑出ぶりにはおよばない」といってやった。関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。関羽は手紙を見て大喜びして、来客に見せびらかせた。”
となっています。
この経緯だと関羽はなんだか子供じみているように見えます。

三国志演義第六十五囘だと、関羽はもう少し馬鹿げた連絡をしてきます。すなわち息子の関平が使者で荊州から成都にやってきて
「父親知馬超武藝過人、要入川來與之比試高低。敎就稟伯父此事。」
“父は馬超どのの武芸ひいでたる由を聞き、西川へまいって試合をして見たいと申して
おり、この由伯父上にお伝えいたすよう申し付けられてまいりました。”
というのです。
これに対して諸葛亮が回答します。
「亮聞將軍欲與孟起分別高下。以亮度之、孟起雖雄烈過人、亦乃黥布・彭越之徒耳。當與翼德並驅爭先、猶未及美髯公之倫超羣也。今公受任守荊州、不爲不重。倘一入川、若荊州有失、其罪莫大焉。惟冀明照。」
“承れば、将軍、馬超と優劣を争わんと欲すと。思うに馬超は武勇に優れた者とはいえ、鯨布、彭越のともがらに似て、翼徳(張飛)がよき相手とならんも、美髯公の抜群の才には何條およぶべき。今、公の荊州守護の任は極めて重し。もし西川に入りて荊州に万一のあやまちあれば罪これより大なるはなし。明察を請う。”
ということです。そこで関羽はその手紙を幕僚に回覧し
「孔明知我心也。」
つまり
“孔明殿はよくわが心を知るは。”
と言います。
立間祥介さんの訳本ではこの話について註に毛宗崗の評を入れています。関羽は本気で試合をしようとしたわけではない。漢の高祖がはじめて鯨布に会ったとき足を洗わせながら挨拶もしなかったのは、彼がおごり高ぶって手に負えなくなるのを恐れたからである。同様に馬超は降参して来たのに西川の諸将に自分の右にでる者がない、とうぬぼれるのを免れない。そこで翼徳の上に関羽のような人がいるということを理解せしめておごりの心を挫いたのである、と説明しています。

類似のエピソードですが、演義の話だと関羽はそれほど子供じみて見えません。

真相はわかりません。しかし私が推し量るに、実際は正史ほどには子供じみておらず、演義ほどに政治的でもなく、プライドが高くて馬超の頭を抑えたかったのではないか、という気がします。






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