正史で次にでてくるのは三国志演義でもおなじみの矢傷の治療です。
関羽はある時流れ矢で左肘を貫通され、傷が治ったあとでも曇りの日や雨の日に骨が疼いたと言います。医者が矢に毒が塗ってあったので、毒が骨に浸み込んでいるから、肘を切り裂いて骨をけずり、毒を取り除けば治るというと、ちょうどその時宴会中であったがすぐに医者に切開させた、とあります。この場面は正史によれば
「羽便伸臂、令醫劈之。時羽適請諸將飲食相對、臂血流離、盈於盤器。而羽割炙引酒、言笑自若。」
とあります。井波さんの訳によれば
“関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。ちょうどその時、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。肘の血は流れ出して、大きな皿一杯に血は流れたが、関羽は焼肉を切り分け、酒を引き寄せて、泰然として談笑していた。”
となります。
宴会をして酒を飲んでいるときに医者を呼ぶのも変ですし、酒を飲みながらすぐに切開手術をさせたという乱暴な話ですね。関羽が矢傷を治療させたのは本当でしょうが、このままでは関羽の強さを過大に述べていて俄かには信じられません。
この話は演義では第七十四囘の末尾から第七十五囘の初めにわたり、さらに潤色されて長く述べられています。第七十四囘の末尾で関羽は曹仁が指示した射手によって(左肘ではなく)右肘を射当てられ落馬します。第七十五囘の冒頭で関平らがこれを救い出して帰陣し矢を抜き取りますが、毒が骨にまで浸み込んで右肘は青く腫れ上がり動かすこともできなくなります。そこで部下たちは、この時の関羽の本拠地である荊州へいったん帰ることを勧めますが関羽は聞きません。しかし傷が痛むことは傷むので医者を探させます。そこへ華陀という名医が現れます。
華陀は関羽に、とりかぶとの毒が骨に浸み込んでいるから肘を切開して骨を削り取る必要がある、と説きます。華陀は切開手術について
「當於靜處立一標柱、上釘大環、請君侯將臂穿於環中、以繩繫之、然後以被蒙其首。
吾用尖刀割開皮肉、直至於骨、刮去骨上箭毒、用藥敷之、以線縫其口、方可無事。
但恐君侯懼耳。」
即ち、
“静かなところに柱を一本立てて鉄の環をとりつけ、その環に肘を通し縄で縛り、布で
顔を隠していただく。私は鋭い小刀で肉を切り裂き、骨に着いた鏃の毒を削り取った上、
薬をぬり、糸で縫い合わせれば、大丈夫です。気おくれされませぬか。”
と説明します。それに対し関羽は
「公笑曰、『如此、容易!何用柱環?』令設酒席相待
“関羽は笑って「それだけなら環つきの柱など要らない。」と言った。そして酒席を設
けてもてなした。”
と対応します。
そして関羽は酒を数杯飲んだところで、馬良に碁の相手をさせながら華陀に肘を切り裂
かせています。切開手術は無事終わり、関羽は華陀に黄金百両をだしますが、華陀は御
礼を断って去ります。現在の中国の単位なら百両は5 kgですから2350万円位ですね。
ちなみに華陀は正史の魏書 方枝伝 第二十九にも出てきます。しかし正史の華陀伝には関羽を治療したという記述はありません。
歴史の本当ではなさそうな記述に厳しい目を向ける裴松之もなぜか、この関羽の矢傷の治療についての正史の信じがたい記述には何も述べておりません。ここで肉を切り、骨を削る治療は痛すぎて、(関羽が常人以上に傷みに堪えたにせよ)宴会で酒を飲みながら受けられるものではない、などと文句をいうのもつまらない事と考えたかも知れませんね。
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