関羽はその後、樊にいる曹仁を攻撃しますが、曹操が于禁を救援に差し向けます。この于禁という将軍は三国志演義ではさほどの将軍として描かれていませんが、正史(魏書
張樂于張徐伝
第十七)にある于禁伝では非常に優秀、勇猛な将軍で手柄も沢山立てております。しかしこの救援は大失敗で、長雨のために漢水が氾濫し、于禁の軍は水の中に孤立します。そして于禁は関羽に降伏するはめになります。于禁が猛将であったが故に、これを捕えたことは関羽の名を大いに挙げることになると思われます。
ここに至って正史では次の記述があります。
「羽威、震華夏。曹公、議徙許都以避其銳。司馬宣王、蔣濟以爲「關羽得志、孫權必不願也。可遣人勸權躡其後、許割江南以封權。則樊圍自解」曹公從之。」
井波さんの訳では
“関羽の威信は中原の地を震動させた。曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬宣王(司馬懿)と蔣済は、関羽が野望を遂げることを孫権はきっと望まないだろうから、使者をやって、その背後を突かせるように孫権に勧め、長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、そうすれば樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。曹操はそれに従った。”
となっています。
短い間ですが、曹操が都を移そうという議論をするほどに関羽の勢いは盛んだったわけです。
しかしこの成功のあとで関羽には急速な没落と死が待っています。
一つ目の原因は上にある、孫権に背後を突かせる計略です。さらっと書いてありますが、“長江以南の孫権の領有権を認める”とはおおきなエサですね。
関羽にとって対孫権については下地となる悪条件があります。孫権が使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、関羽はその使者をどなりつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた、というのです。
この点はやや関羽は気の毒な事情にあります。怒って孫権の使者に侮辱を与えたことは、必要なパフォーマンスだったのではないでしょうか。そもそもこの縁談は微妙な要因を含む話です。この時点で孫権の息子の嫁に娘を出して姻戚になることなどできない話です。むしろ関羽はそんな縁談が劉備に聞こえることも嫌だったはずです。
逆に孫権にとっては駄目を承知の縁談で嫌がらせをしていたのかも知れません。
もう一つは日頃の態度が原因で部下の裏切りにあうことです。麋芳が江陵、傅士仁が公安にいましたが、この両名はかねてから関羽が自分達を軽んじていると嫌っていました。そして関羽に非協力で、その結果関羽もこの両人を憎んでいました。
こうなると麋芳も傅士仁も関羽にどのような目に会わされるかわからないので不安になります。そこに孫権がつけこみます。孫権は内々にこの両人に誘いをかけ、両人は孫権を迎え入れます。
張飛伝の終りの部分に、関羽は兵卒を厚遇したが士大夫に対しては傲慢であり、張飛は君子(身分の高い人)を敬愛したが、小人(身分の低い人)にあわれみをかけることはなかった、とあります。この二人のどちらも人を使うという意味では欠けるところがあったということでしょう。関羽の態度は一見格好良さそうではありながら、結局禍を招いたようです。
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