2014年9月2日火曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(7)



さて疑問なのは、関羽はなんで樊の攻撃を開始したかです。

三国志演義の方の説明は分かりやすいです。劉備が漢中をとり、自ら漢中王になり表文を皇帝にだします。
劉備の献帝への表文に対して曹操が大いに怒り、征伐をしようとすると、司馬懿が諌めます。その計略は孫権を嗾けようというもので、前回の関羽伝(6)で書いたものと類似です。しかし正史の場合、関羽がすでに樊の曹仁の救援に出た于禁を捕虜にしたあとのことで、孫権にエサをやって関羽の背後を突かせれば樊の包囲は解ける、という話でした。
今度の司馬懿の説得では孫権が関羽攻撃に出れば劉備が荊州を救援にでる。そこで曹操が軍勢をおこして、漢中を攻め取ればよい、というのです。ここでの主眼は漢中です。
そこで魏は満寵なるものが派遣し、孫権には荊州を攻めることを勧め、一方魏は漢中に攻め入るという構想を提案します。

ここで諸葛瑾が両天秤の提案をします。関羽には娘がいるから孫権の子供との縁談を持込み、承知したら、関羽と連合して魏を攻めよう、承知しなかったら曹操に加勢して荊州を乗っ取ろうというのです。
諸葛瑾はのこのこ関羽の所へ縁談を提案しに行き、罵倒されて追い返されます。

そこで孫権は関羽の無礼を怒って荊州を攻めることにします。ここで歩隲が、(呉から攻めるには長江が邪魔になるが)曹仁が襄陽・樊城にたむろしていて、陸路から簡単に荊州を乗っ取れるので、それを曹操に提案すべきだと言います。そうすると関羽は対抗上荊州の軍勢を率いて樊城に攻めかかるはず。そこを狙って荊州を乗っ取ろうというのです。

その結果曹仁が攻撃に出ようとするとき、その情報に接した諸葛亮は劉備に、関羽を昇任の上、機先を制して彼に樊城を攻めさせることを提案します。(しかし、これをやった結果孫権の攻撃に遭い、関羽が命を落とすことになるので、諸葛亮の提案も万全ではなかったことになります。)
それにしても、以上の話ならなぜ関羽が樊を攻めるに至ったかわかります。

正史ではどうでしょう?
「二十四年(219)、先主爲漢中王、拜羽爲前將軍、假節鉞。是、羽率衆、攻曹仁於樊。」
です。井波さんの訳では
“二十四年、先主は漢中王になると、関羽を前将軍に任命し、節(はた)と鉞(まさかり)を貸し与えた。この歳、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。”
とあります。
これだと、位を進められた関羽が自主的に樊の攻撃を始めたようにさえ見えます。

実際、劉備が樊を攻撃せよという指示を出したという記述は、先主(劉備)伝、諸葛亮伝、武帝(曹操)紀、曹仁伝などには出ていないのです。
先主伝では先主が漢中王になる上書のあとに、ぽつんと以下の記述があるのみです。
「時、關羽攻曹公將曹仁、禽于禁於樊。俄而孫權、襲殺羽、取荊州。」
すなわち、
“この時、関羽は曹公の将の曹仁を攻撃し、樊において于禁を生け捕りにしたが、突如孫権が襲撃して関羽を殺し、荊州を奪い取った。”
というのみです。
あの関羽の最後の大活動の意味づけが不思議なことに正史ではよくわからないのです。






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