これまでしばらく三国志のことを書いておりましたが、今回は史記にもどって范蠡についてかきます。
范蠡は有名人ですが、列伝には挙がっておらず、越王勾践世家および貨殖列伝第六十九に記述があります。たとえば三国志では関張馬黄趙伝第六の中に独立して関羽伝がありますが、史記の越王勾践世家、あるいは貨殖列伝の中に小項目として范蠡伝が立てられている訳ではありません。
初めて勾践の名前を知ったには子供向けの太平記でした。それは隠岐へ流される後醍醐天皇に対して、児島高徳が密かに泊られている所の庭に侵入し、桜の木を削って「天莫空勾践、時非無范蠡」(天勾践をむなしうするなかれ、時に范蠡なきにしも非ず。)と書き、後醍醐天皇(勾践に比せられる)に、時いたれば范蠡のような(再起を助ける)忠臣がいない訳ではない、という志を伝えたという部分です。
范蠡が史記で初めに登場するのは、越王勾践が呉王闔閭を負傷させ死に至らしめ、闔閭のあとをついだ夫差が越に報復しようとしていることを知り、先制攻撃をしようとしたところでです。
范蠡は、“兵は凶器、戦いは逆徳、争いは事の末”として反対します。
それでも越王勾践は戦を起こし、逆に大いに敗れて会稽山で包囲されます。そこで勾践は范蠡に諮ります。と、いうことは范蠡も戦についてきたことになります。
この時范蠡のアドバイスは
卑辭厚禮以遺之,不許,而身與之市
です。この部分の野口・近藤・頼・吉田訳では
“言葉を卑くし、かれにたいする礼を厚くし、わが重宝を呉王に献上なさい。呉が、それでも講和を許さないならば、わが君御みずから呉におもむかれて、商人が交易して利益をはかるように呉王にお使えなさってください。“
ということです。この提案を勾践は承知します。
どんな恥を忍んででもなんとか命だけでも助けてもらってこの場は切り抜けよう、というわけです。こうしたところは日本人よりは粘着性があります。
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