2014年10月4日土曜日

史記 越王勾践世家 第十一 范蠡(2)



これからあと実際の敗戦処理は越の大夫の種(ショウ)の仕事で、種は講和の使者にたちます。そして勾践は臣僕、その妻は下婢になるという話を持ち出します。
呉に仕えていた伍子胥が講和はダメだと呉王に言い、種は一旦帰ります。越王はしかたなく破れかぶれの決戦しようとしますが、種はしぶとくて、呉の太宰(漢代なら天子の師です。最高級の官位の者でしょう。)の嚭()が貪欲で利によって誘えると説きます。

勾践は聞き入れて、種に美女、宝器を嚭に贈らせます。これにより嚭のとりなしで種は再び呉王にまみえ、勾践の降伏を受け入れてもらうように頼みます。また、嚭も口添えします。
伍子胥はあくまでも反対しますが、結局講和が成立してしまいます。

そして越王勾践は帰国します。
帰国した勾践は胆を側において坐臥するとき、飲食するときに嘗めたとあります。臥薪嘗胆といいますが、嘗胆は上に書いたように記述がありますが、史記のこの部分では薪の上に寝たとは書いてありません。
また余計なことかも知れませんが、胆は新しいのと頻繁に取り換えないと腐ってしまうのではないかと心配します。

勾践は国政を范蠡に任せようとしますが、范蠡は、「種は兵事について蠡に及ばないが、蠡は国家を鎮撫し人民を親しくなつかせることは種に及ばない」と言います。
そこで国政は種に任されます。

これは范蠡の偉いところです。敗戦国とは言え、君主が宰相として用いようというのにもしかしたら、競争相手であるかも知れない種を推薦するのです。結果的にその後、范蠡は大きな活躍をしますが、ここで遠慮してそれっきりうずもれてしまう可能性だってあったと思います。

その上、范蠡は講和の人質として柘稽(シャケイ)という者と呉に留まるのです。范蠡に国政を委ねるならば種が人質になったのではないでしょうか。

また、なんでこんな人質が有効なのでしょう。勾践の子供というのならわかりますが、いかに優秀とは言え臣下です。見捨てることも可能です。范蠡からみれば両国の間でなにか齟齬があれば忽ち殺されてしまう立場にみずからを置くのです。

自分を知り、確固たる考えがあり目先の動きでふらふらしない人間なのです。度胸もあったのでしょう。到底凡人の及ぶところではないと思います。






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