呉王夫差の十四年に、呉王は兵を率いて北上し、黄地というところで諸侯と会盟したしました。中国に覇を唱え、周室を全うしようとしたのです。
この時、呉の国には老幼と太子が留守番している状態になりました。もし伍子胥が生きていたなら、越が窺っているのに大軍を率いて他国に行き、国を留守にするのは危険だと必ず忠告したことでしょう。
ここで奇妙に見える記述があります。「乃發習流二千人,教士四萬人,君子六千人,諸御千人,伐吳」です。野口・近藤・頼・吉田さんたちの訳では「習流二千人」は「水泳練達の兵二千人」とのことです。私の理解では揚子江は呉の中を流れていて、呉と越の国境ではありません。なんで水泳練達の兵が殊更必要なのでしょう。どうもよく理解できません。
この時の戦で呉を破り、呉の太子を捕虜にし、これを殺します。
呉は会盟の最中でしたので自国の敗戦をひた隠しにし、会盟を終えてから和平を請願します。
しかも、この会盟では呉王が長にならず、晋の定公が長になったのですから呉王は何をしたのだかわかりません。
さて越はまだ呉を滅ぼす力が不足と判断し、ここで一旦講和します。
この四年後(呉王夫差十八年)に越はまた呉に戦をしかけるのですが、この時呉はすでに斉や晋との戦いで兵を失い疲弊していたので、なすところなく敗れました。その後越は呉を二十年に討ち、二十一年に討ち、二十三年に完全に滅亡させます。
二十三年の時、呉王夫差は太夫の公孫雄を派遣して和平を請います。その内容は、以前に会稽で勾践を包囲したときに、あえて命にさからわず、君王(勾践)と和平を結んで(君王は)帰国することができた(夫差不敢逆命、得與君王成以歸。)。だから今回はこちらが許して貰いたい、というものでした。
勾践は同情して許そうとします。しかし范蠡はこれに反対します。「前は天が越を呉に与えたのに、呉が天命に逆らって取らなかったのです。今、天は呉を越に与えたのだから逆らってよいものでしょうか。」といい、厳しい条件を呉王に伝え自殺に追い込みました。
ここまでの范蠡の話は、有能な人であったことを示しているかも知れませんが、同等のアドバイザーはこの時代にも幾らもいたかも知れません。
ここから范蠡が優れた洞察力により身を処す話が出てきます。
勾践が覇者となり、諸侯は勾践を覇王と呼んだのですが、范蠡は越を去り斉へ行きます。そして彼が同僚であったあの種(ショウ)に書を送り
「蜚鳥盡,良弓藏;狡兔死,走狗烹。越王為人長頸鳥喙,可與共患難,不可與共樂。子何不去?」
と言ってやりました。すなわち
“飛んでいる鳥が射つくされると、よい弓はしまわれ、敏捷な兎が死ぬと、猟犬は烹(に)られます。越王は頸(クビ)が長く、口が鳥のようにとがっています。艱難をともにすることはできますが、楽しみをともにすることはできません。あなたはなぜ去らないのですか。”
用がなくなった大手柄を立てた臣下、というのは時に鬱陶しく邪魔に見えることはあると思います。さりながらそこまで思いいたらず、自分の手柄のお蔭で居心地よく暮らせることを期待してそのまま居座ってしまうのが普通でしょう。思い切って離れて他国に行ってもそこで富貴で安全に暮らせるかどうかわかりませんし。
一方種は手紙をみて病気と称して朝廷にでるのを辞めました。この行動は中途半端で、結局反乱を計画している、と讒言され、王に自殺させられます。
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