関羽は顔良を斬った功を曹操は上表し、関羽は漢壽亭公に封ぜられました。
正史によればこれより先、曹操は関羽の立派な人柄を評価していた、とあります。そして自分のところに長く留まるつもりはないのではないか、と推察して張遼に考えを聞かせます。その時の関羽の答はこうです。
「吾極知曹公待我厚。然、吾受劉將軍厚恩、誓以共死、不可背之。吾終不留。吾要當立效以報曹公乃去」遼以羽言報曹公、曹公義之。」
井波さんの訳によれば
“曹公が私を厚遇してくださるのはよく知っていますが、しかし私は劉将軍から厚い恩誼を受けており、一緒に死のうと誓った仲です。あの方を裏切ることはできません。私は絶対に留まりませんが、私は必ず手柄を立てて曹公に恩返しをしてから去るつもりです。”
です。
よくこのような回答をしたものです。きわめて危険で、もしかしたら曹操に殺される可能性があります。
このあとで関羽は顔良を斬る手柄を立てます。
「及羽殺顏良、曹公知其必去、重加賞賜。羽、盡封其所賜、拜書告辭、而奔先主於袁軍。左右欲追之、曹公曰「彼各爲其主、勿追也。」
とあります。すなわち
“関羽が顔良を殺害するに及んで、曹公は彼が必ず去るだろうと思い、重い恩賞を賜った。関羽はことごとくその賜りものの封印をし、手紙を捧げて訣別を告げ、袁紹の軍にいる先主のもとへ奔った。側近の家来が彼を追跡しようとすると、曹公は「彼は彼なりに、主君のためににしているのだ。追跡してはならない」といった。”
ということです。去るだろうと思って重い恩賞を与えるのなら豪華な餞別を与えたことになります。関羽は(多分手紙の中で感謝を述べつつも)封印をして置いて去ります。これも筋を通し、礼儀を尽くしていると言えます。
裴松之は註の中で、曹操は関羽の志を嘉し、追っ手を差し向けず、道義を成就させたことを曹公の偉大さとしてたたえています。
実際、敵方の人間であっても、自分の利害だけ考え、あるいは自分の命を惜しんで主人を裏切る人よりは、死んでも信義に悖る事はしない、という人物の方が立派で好ましく見えるでしょうから、曹操がとった態度は、彼が度量の大きな人間であるならば自然のなりゆきといえましょう。裴松之の称賛はもっともなことです。
しかし決断の点において、人生そのものがかかった関羽の選択の方が厳しいです。まだ弱小である劉備に対して信義を守っても、結局は消えゆく小軍閥と心中するだけかも知れません。それでも信義を守る態度というのが男らしく格好がよく、長く人気を保つ理由なのかも知れません。
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