それから、関羽が曹操の捕虜になる有名な話が続きます。
建安五年(200年)に曹操が東方を征伐します。劉備は袁紹のもとへ逃げ、関羽が捕虜になる話です。正史ではあっさりと「曹公禽羽」と書いてあるだけです。
三国志演義では「第二十五囘 屯土山關公約三事 救白馬曹操解重圍」に対応する部分
であり、関羽は次の三項目が認められたら降伏する、といいます。
一、漢の天子に降参するので曹操に降参するのではないことを認めること
二、(劉備の)二人の夫人には皇叔の俸禄を賜り、何ものも立ち入れないこと、
三、劉備の行方がわかり次第劉備のもとに行くこと
実際にはこの降伏条件はさすがに難しいでしょう。しかし、後に確かに関羽は劉備のところへ帰りますから気持ちはそうだったのでしょう。まるで作り話の世界ように劉備に忠節です。この辺が人気の原因かとも思われます。
その後の正史の記録では関羽は厚遇されるとともに、手柄を立てています。
有名な顔良を斬った話は、三国志演義では以下のようになります。
「關公奮然上馬、倒提靑龍刀、跑下山來。鳳目圓睜、蠶眉直豎、直衝彼陣。河北軍如波開浪裂。
關公逕奔顏良。顏良正在麾蓋下、見關公衝來、方欲問時、關公赤兔馬快、早已跑到面前。顏良
措手不及、被雲長手起一刀、刺於馬下。忽地下馬、割了顏良首級、拴於馬項之下。飛身上馬、
提刀出陣、如入無人之境。
“関公はふるい立って馬にまたがり、青竜刀をさか手にもち、土山をかけおりた。切れ長の目をみひらき、太い眉を逆立てて、敵陣に駆け入れば、河北の軍勢は波のように両方に分かれるところ、顔良目指して殺到した。顔良は絹傘の下にあったが、関公がすさまじい勢いで来るのを見たので声をかけようとした。その時、関公の赤兎馬は足が速く、眼前に迫り、顔良の手向かいの隙もあらせず、長刀一閃、馬の下に斬っておとしていた。関公はひらりと飛び降りて首を斬り、馬のうなじの下にくくりつけると、馬に飛び乗って長刀をさげ、敵陣を駆け出でたが、無人の境を行く如くだった。”
演義では武将の能力は個人的武勇で語られるので、ここでの関羽の活躍は大軍に一人で駆け行って敵将の首をとる話になっています。
しかし正史でもそんなに変わりません。
「紹遣大將軍顏良、攻東郡太守劉延於白馬。曹公、使張遼及羽、爲先鋒擊之。羽、望見良麾蓋、策馬刺良於萬衆之中、斬其首還。紹諸將莫能當者、遂解白馬圍。曹公卽表、封羽爲漢壽亭侯。」
です。井波さんの訳によれば
“袁紹は大将の顔良を派遣して、白馬にいた東郡太守劉延を攻撃させたが、曹公は張遼と関羽を先鋒にして、これを撃った。関羽は、顔良の[車につける大将の]旗じるしと車蓋を望見すると、馬に鞭打って[馳せつけ]大軍の真っただ中で顔良を刺し、その首を斬りとって帰ってきた。袁紹の諸将のうちで相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。曹公は即刻上表して関羽を関寿亭侯に奉じた。”
となります。
関羽は本当に個人的武勇にも優れていたと思われます。川中島の上杉謙信のような勇猛果敢さがあったのでしょうね。
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