2014年4月26日土曜日

三国志演義、三国志 関張馬黄趙伝第六 関羽伝(1)



関羽は三国志の英雄の中で、諸葛亮とともにもっとも崇拝されている人物でしょう。どういう訳か商売の神様として崇められ、関帝廟が中国のみならず、世界中の中華街にあるそうです。崇拝されているのは実は正史の関羽ではなく三国志演義の関羽かもしれないと疑いつつ書きます。

さて正史の関羽伝の始まりは
「關羽、字雲長、本字長生、河東解人也。」
となっています。まず字が雲長、もとの字が長生で、河東郡解県の人とあります。そして
「亡命、奔涿郡」
即ち、亡命して涿郡に奔る、とあります。何かまずいことがあったのでしょうか。劉備と張飛はもとから涿郡の人だったのですが、関羽は涿郡に逃げてきた人なのです。
三国志演義によれば彼は河東郡(解県ではなく)解良県の人で、土地の豪族が勝手なことをやっていたので、斬り捨てて逃げていた、と言います。なんで故郷を出奔したのか理由を記さないよりは、悪い豪族を斬ったという方が人物像が格好良くみえますね。
なお、彼のもともとの字は演義の弘治本は正史と同じく長生ですが、毛本では寿長になっています。毛本は誤りのようです。

その次に次の記述があります。
「先主於里合徒衆、而羽與張飛爲之禦侮。」
井波さんの訳によれば
“先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。”とあります。
三国志演義にでてくる有名な桃園での義兄弟の契り(宴桃園豪傑三結義」)などという話は正史には出てきません。

しかしその後の記述によれば
先主與二人寢則同牀、恩若兄弟。」
とあり、井波訳によれば
“先主は二人と同じ寝台にやすみ兄弟のような恩愛をかけた。”
です。かなり親しい関係だったと言えます。しばしば、この“同じ寝台にやすみ”のような表現を見ますが、日本人から見ればいくら親しいからといってなんだろうと思います。ただの親しさを表す修辞なのでしょうか?
そもそも寝台がよほど大きくないと、劉備、関羽、張飛が一緒に寝ることはできないだろうと思うのですが

一方において
「而稠人廣坐、侍立終日、隨先主周旋、不避艱險」
ということで、
“大勢の集まっている席では、一日中そばに立って守護し、先主につきしたがって奔走し苦難をいとわなかった。”
とありますので、公的は場面では忠実な家来として振る舞っていたのでしょう。





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