何進が都に招いた董卓は、何進が殺されたあとで到着しました。
董卓は時の皇帝であった少帝辯を廃して弘農王とし、代わりに献帝を擁立します。献帝の方がしっかりした人間である、と判断したのです。そして曹操を驍騎校慰に任命し、董卓の相談にあずかってもらうようにしようとします。驍騎校慰とは、黄巾の乱ののちに制定された西園八校慰の一つで、皇帝親衛隊の指揮官だそうです。
董卓は暴虐な人間ですが、人の能力を見る目はあったのではないでしょうか?
献帝は少帝辯よりしっかりしていたし、曹操は有能な人材であった訳です。逆に言えば曹操は董卓にも有為の人材と思われたわけです。
ここでも曹操は先見の明があるところを示します。董卓は駄目だと判断し、逃亡してしまいます。
この逃亡中に事件が起こります。「魏書」の記述によれば旧知の呂伯奢(リョハクシャ)という者の家にたちよります。しかし本人は留守で、子供たちと食客がぐるになって曹操をおどし、馬と持ち物を奪おうとします。そこで曹操は自ら刀を振るって数人を撃ち殺した、ということです。
これならば、曹操は個人的武勇にもすぐれているというだけのエピソードです。
しかし「世語」では三国志演義にも類似の話が出てくる胸糞の悪い話になっています。すなわち、呂伯奢は外出していたが五人の子供たちがいて主客の間の礼もわきまえていました。ところが曹操は彼らが自分を始末するつもりか、と疑い剣を揮って夜の間に八人の人間を殺害して去った、というのです。
さらに孫盛の「雑記」によれば次のようになります。
「太祖聞其食器聲、以爲圖己、遂夜殺之。既而悽愴曰「寧我負人、毋人負我!」遂行。」
今鷹さんと井波さんの訳によれば、
“太祖(曹操)は彼ら用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思い込み、夜のうちに彼らを殺害した。そのあと悲惨な思いにとらわれ、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせないぞ」といい、かくして出発した。”
となります。
これでは猜疑心がつよく、疑ったら簡単に人を殺してしまう人ということになります。曹操のこの手のエピソードが、この呂伯奢の話だけならば、呂家の殺人の経緯については複数の説があり、どれが正しい話かわからないのですが、先々での部下に対する態度のなかにも、そうした冷酷な側面が見えないでもありません。多くの人が簡単には共感できない側面を持つ人物と思われます。
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