官渡の戦いのあと冀州のまちの多くが袁紹に叛旗を翻しますが、これを袁紹は撃破しています。
かくて彼が生きているうちにはなんとか袁家の勢力はあったのですが、死後に問題が発生します。袁紹についての記述の(5)にも書きましたように、袁紹は息子の袁譚、袁煕、袁尚、および甥の高幹にそれぞれ一州を支配させ能力を見たいといいました。
ところが病を得た袁紹の最後についての正史の記述は
「自軍敗後、發病。七年、憂死。紹愛少子尚、貌美。欲以爲後、而未顯。」
今鷹さん、井波さんの訳によれば
“戦いに敗れて後発病し、建安七年(202)、憂悶のうちに死んだ。袁紹は年少の子袁尚を美貌のゆえに愛し、後継者にしたいと思っていたが、まだ公表していなかった。”
です。
結局袁紹は統治能力ではなくて見た目がよい袁尚を選びたがっていたのです。正妻の劉氏の影響かもしれません。
では本当は誰がよかったのでしょう?
袁譚の施政について正史の註に「九州春秋」の引用があり、
「然信用羣小、好受近言、肆志奢淫、不知稼穡之艱難。」
すなわち、今鷹さん井波さんの訳によれば
“小人を信任し、卑近な言葉を好んで受け入れ、思い通りにふるまって奢侈淫蕩におぼれ、農業の苦労をわきまえなかった。”
という体たらくでお話になりません。
さらに袁譚は妻の弟に兵を統率させて城内においたのですが、この兵隊が盛り場では追剥、泥棒をやり、城の外では田野を荒らしまわる始末だったそうです。
さりながら、同じく正史の註にある「典論」の引用では
「譚長而惠、尚少而美。紹妻劉氏愛尚、數稱其才、紹亦奇其貌、欲以爲後、未顯而紹死」
すなわち
“袁譚は年長で、恵み深く、袁尚は年少で美貌であった。袁紹の妻の劉氏は袁尚を愛し、たびたび彼の才能を称揚し、袁紹もまた彼の容貌をめで、後継者にしたいとおもっていたが、まだ公表しないうちに袁紹は死亡した。”
とあります。これだと袁譚が特に悪いというほどではありません。むしろ袁尚を選択することに問題ありです。
結局私の貧弱な文献知識では誰が適任かわかりません。
しかし誰かが優秀だったとしても、一度分けて州を統治させてしまえばそれぞれが後継者候補となり、また束ねるのは至難の業です。家来たちは派閥を形成し、互いに対立し、兄弟たちの意思とは関係なく争いになっていくということは大いにあり得る結果と思います。曹操という強敵がいるのに兄弟で争うのは愚劣の極みというのは簡単ですが、人間そういう状況におかれればやむを得ずそういう方向に流れてしまうではないでしょうか。
袁紹の施策の結果、兄弟喧嘩が必然的に発生し、袁家の滅亡に直につながったまでは断言できませんが、この争いの種をまいた袁紹はこの点においては愚かであったと思います。
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