このあと曹操は官渡に戻ります。沮授は
「北、兵數衆而果勁不及南。」
と説きます。即ち
“袁紹軍(北)は、数は多いが勇猛果敢さでは曹操(南)におよばない。”
そして一方
「南、穀虛少而貨財不及北。」
といいます。即ち
“曹操軍(南)の食糧は足りていないし、財貨で袁紹軍(北)におよばない。”
です。
したがって、敵は短期戦が有利、袁紹側は長期戦が有利だと説きます。
したがって、敵は短期戦が有利、袁紹側は長期戦が有利だと説きます。
もう一人袁紹にはすぐれた家来がいます。田豊です。彼も長期戦に持ち込むことを提案します。曹操は用兵に巧みで、軍勢は少なくても侮れない。一方袁紹は自然の要害があり、河北四州(青州、冀州、幷州、幽州)の軍勢をかかえているので、内政、外交を充実し、奇襲隊で河南の軍を翻弄し、民衆を混乱させれば勝てる。勝敗を一戦で決めるのは危険、と説きます。
袁紹は沮授や田豊の献策を聞き入れず前進し、官渡に接近し合戦となります。田豊に至っては投獄されてしまいます。
この初戦では袁紹軍は負けてはいません。激戦の結果
「百姓疲乏、多叛應紹、軍食乏」
となります。今鷹、井波さんの訳によれば
「人々は疲弊しきり、多くのものが謀反を起こし袁紹に寝返り、兵糧も欠乏してきた。」
ということですから、曹操軍が相当不利になったのです。
しかし最後に袁紹は失敗します。淳于瓊等に輸送車(運車とあります。)を迎えに北に赴かせます。ここで沮授がさらに増援部隊を送って曹操の略奪に備えるべき、と進言しますが、袁紹は聞き入れません。ここまでのところで袁紹は概ね快調に勝っており、油断するのも無理ないとは思いますが。
本隊と四十里はなれた烏巣というところに宿営した淳于瓊は曹操に襲撃されてしまいます。袁紹は騎兵隊を救援に送りますが撃破されます。
そして高覧、張郃など袁紹の将軍たちは袁紹を見限り、曹操に降伏してしまいます。一方に形勢が傾くと、雪崩を打ってそれを加速するようなことが起こるのですね。
かくて袁紹の軍は総崩れになり、
「紹與譚、單騎退渡河。」
という有様でした。すなわち袁紹と(長男)袁譚は単騎で黄河を渡って逃げたのです。
袁紹の方は曹操に敗けて逃げもどってから、田豊の意見を聞かなかったことを恥じて彼を殺害してしまいます。その結果正史に以下のように書かれてしまいます。
「紹、外寬雅有局度、憂喜不形于色、而內多忌害、皆此類也。」
すなわち、今鷹、井波さん訳では
“袁紹は表面はおっとりと上品で度量があり、喜怒哀楽を表情にあらわさないが、内心は嫌悪の情が強かったこと、みなこの例の如くであった。”
勝つチャンスはあり、その方策を述べた有能な士もいたのだが、度量が狭くその言を採用せず、みすみす敗れ去った、という評価がなされています。
さて曹操だって赤壁で大敗を喫しています。しかし正史の中の各所に現れる赤壁の戦いの記述は簡単で、曹操に勝利を得やすいような献策を誰かがしたとか、曹操が聞き入れなかったとかそんな話はでてきません。
正史の三国志は書いた蜀出身の陳寿が晋に仕えて書いたもので、一応魏から晋への流れを正統としています。曹操を貶める記述はありません。曹操が赤壁の戦い後早く世を去り、子供たちが争って劉備や孫権につけこまれて魏が亡んだら、もっと厳しいことを書かれたかもしれませんね。
劉備も夷陵で大敗しています。しかし、諸葛亮が国を支え、大敗の結果すぐに国が亡びるようなことはなく、三国鼎立は続きました。また陳寿は蜀出身だったので蜀を庇って書いているところもあり、劉備はあからさまにけなされていません。
袁紹はこの官渡の戦いで息の根を止められた訳ではありません。曹操も袁紹が生きている間に河北へ侵攻することはありませんでした。思うに袁紹は超一流ではなかったかもしれないが、若干運が悪くて実質以上に無能扱いされたのではないでしょうか。
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