2016年5月22日日曜日

三国志 董ニ袁劉伝 第六 袁紹伝(5)



袁紹は易京で公孫瓚を撃破して殺し、その軍勢を併呑します。このあたりまでが、彼の力がよく発揮されていた時代です。

その後段々に袁紹のやることに愚かしさが混じってきます。まさに古代ギリシャのパブリリウス・シリスの言う、「運命は亡ぼさんとする者をおろかにする。」という話です。
長男の袁譚を派遣して青州を治めさせます。沮授がこれを禍の始まりになる、と諌めますが、息子たちにそれぞれ一州を治めさせ能力を見たいと言います。次男の袁煕に幽州を、甥の高幹に幷州を治めさせます。これはさすがに問題がある措置に見えます。兄弟従弟が割拠の状態にしたままで遺言で後継者指名でもするつもりだったのでしょうか。それで収まるとでも思っていたのでしょうか?普通なら内訌勃発です。
また天下が群雄割拠の時代で、特に曹操がかなり頭角を現しています。ここで袁家の兄弟達で争っていたら打ち破られて袁家が滅亡する可能性が非常に高くなります。そんなことは特別の知恵がなくても思いつきそうな可能性なのですが

さて袁紹はいよいよ曹操と対決すべく許を攻略するために出兵します。この出兵の可否が部下の間で議論になりました。
「献帝伝」によれば田豊と沮授は、「出兵が続いて民衆は疲弊し、倉庫に貯えがない、農業を盛んにし、天子に使者をやって戦利品を献上する、」ということを提案します。天子に戦利品献上の提案は、天子を迎え入れて大義名分を得て天下に号令すべし、という考えに基づいている、と考えられます。
一方審配と郭図は、「袁紹の戦の能力はすぐれているし(実際これまでのところ実績をあげています。)、黄河北方の大軍を動員できるのだから今ならやれる、時間が経てば始末することは困難になる、」と言います。

民は疲弊して、倉庫に貯えはない、と言いますが、出兵にあたり食糧は十分に持って行けたのですから、倉庫に貯えはあったのです。民衆は疲弊というのがどの程度かは分かりません。しかし今戦いを起こさず先延ばしにすれば、曹操側からは何も起こさず民は安穏に暮らし続けられるでしょうか?何もしないのは多分問題の先送りに過ぎません。
曹操は有能で地盤をどんどん固めています。ぐずぐずすればますます強大になる、という意見は正しいと思われます。
したがってこの出兵が愚かであるとは言えないと思います。

さてこれより前、袁術が徐州を通過して北方の袁紹のもとへ赴こうとしたので、曹操は劉備を徐州に派遣して袁術に当たらせようとしました。しかし徐州に着かないうちに袁術は病死します。
ところで劉備が袁術迎撃に出る前、献帝の舅にあたる董承から曹操誅殺の密勅を受けたことを知らされていました。しかし劉備はまだ行動を起こしていなかった、という状態でした。
劉備が出ている間にこの件が漏洩し、関係者一同処刑されてしまいました。劉備は運が良かった訳です。したがって袁術が死んでも劉備は帰らず、徐州の刺史の車冑を殺し、沛に駐屯してしまいます。そこで曹操は初めは劉岱と王忠を派遣して劉備を征伐させようとしますが、うまく行きません。
とうとう曹操自ら劉備征伐に出馬します。この時はチャンスとばかり田豊が曹操の後方を襲うように進言します。しかし袁紹は自分の赤子の病気を理由に出兵しません。乱世に天下を窺おうとする英雄にしてはちょっと弱いですね。ここでやればもっと良かったのかも知れません。しかし、この期を逸したのが袁紹にとって致命傷であったとも思えません。



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