曹操は建安三年(198年)に張繍を破り、呂布を殺し、眭固(スイコ)を斬っています。一方敵対する袁紹は、公孫瓚を破って領地を併合し、青州、冀州、幽州、幷州の四州に跨る大勢力を築き、十余万の軍勢で許を攻撃しようとします。袁紹は愈々曹操と正面衝突する形勢になります。
しかし武帝紀では、袁紹との対決の前に袁紹の従弟、袁術の話が出てきます。彼は荒淫、奢侈で領民を苦しめていたのですが、自分勝手に皇帝を僭称します。けれども曹操らに打ち破られ、皇帝の称号を袁紹に奉って袁譚のところに身を寄せるべく、下邳を通って北方に行こうとします。
袁術も不思議な男です。漢の皇帝が譲位するのではなくて、自分で勝手に称した皇帝の位を譲る、なんて言われて喜んでもらう人間なんているでしょうか。
ところで袁術の北方への逃亡を曹操が劉備と朱霊をやってさえぎらせます。袁術はしかし病死してしまいます。曹操が劉備を派遣したとき。程昱と郭嘉が劉備を派遣すると聞き「劉備不可縱」(劉備を自由にしてはなりません。)と進言します。
曹操は後悔し、彼を追わせますが間に合いません。劉備は東に出発する前に、密かに董承らと謀反を企んでいたので、下邳までくると徐州刺史を殺害し、旗揚げしてしまいます。
このあたりの話からすると、曹操は程昱や郭嘉ほどには劉備を恐れていなかった風にも見えます。
しかしすぐあとではそうでもない記述が出てきます。
建安五年(200年)に董承達の計画が漏れ関係者が全員処刑されたあと、曹操は東に向かい劉備討伐に向かいます。
この時諸将は曹操に向かって、今天下をあらそう相手は袁紹で、その袁紹が攻めてくるのに東へ向かって、背後を突かれたらどうしますか、と引き留めようとします。しかし曹操は
「夫劉備人傑也、今不擊必爲後患。袁紹雖有大志、而見事、遲。必不動也」
即ち、今鷹さん、井波さんの訳によれば、
“そもそも劉備は人傑じゃ。今攻撃しなければ、のちのわざわいとなるにちがいない。袁紹は大きな志望をもってはいるが、機を見るに敏でない。きっと行動は起こさないだろう。”
といいます。
これだと劉備の能力を恐れて征伐にかかったことになっています。しかし本当のところは董承の陰謀に劉備も関わっていて、しかもうまく逃げてしまったことを曹操は知って、すっかり腹をたてていたのではないか、と勘繰れないこともないと思っています。袁紹については決断が遅く、出てはこないだろうと踏んでいたのでしょう。
曹操はこの時、劉備を打ち破り、関羽を降伏させました。そして袁紹は結局動きませんでした。曹操の見通しは正しかった訳です。判断力と度胸はあったということでしょうね。
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