建安五年(200年)八月に袁紹は前進し、合戦して曹操に対して優位にたちます。さらに袁紹は官渡にまで進出してきます。この時、曹操軍は食糧が足りなくなって、曹操はいったん許に帰ろうかと荀彧に相談します。
しかし、荀彧から今敵を制圧しなければ付け込まれる、と撤退に反対されます。ここで荀彧は、”曹操は武勇に優れ、英明でもあるし、天子を奉っているから正義もあるし、必ず成功します。”という説き方をしています。
すくなくも、荀彧は天子を奉戴する正義を信じていたのでしょう。しかし曹操は建前としてでもあまりそのような主張はしていなかったのではないでしょうか。
さて袁紹のところから逃げてきた許攸という者が曹操に、袁紹軍の糧秣を貯蔵している烏巣の淳于瓊らの軍の攻撃を進言します。曹操はその策を聞き入れ、本陣は曹洪にまかせ、曹操みずから攻撃にでます。
これに対し袁紹の方は、糧秣輸送軍の支援に力を尽くすよりも、むしろ曹操の本営を攻撃して撃破すれば糧秣輸送軍の方は自然になんとかなる、という提案にのり、曹洪が守る本営の攻撃に張郃、高覧を派遣する一方、烏巣には不十分な数の騎兵を応援にだします。しかし、糧秣輸送軍は打ち破られ、淳于瓊は死にます。一方曹操の本陣に向かった部隊は淳于瓊が敗けたことを知って曹操に降伏してしまいます。
これで袁紹軍は糧秣をすべて失い、本陣を攻めた張郃と高覧の兵を失って惨敗となります。
正史の記述の流れでは、曹操は正しい進言を採用し、袁紹は間違った意見を採った、ということになります。たしかに結果を見ればそのように見えます。
しかし曹操の果断さと軍事的センスの良さが成功をもたらした面があると思います。
曹操が袁紹の立場で曹洪の守る本営を大軍集中で攻撃したらこれを落とせたかもしれないし、あるいは逆に袁紹が曹操の立場なら、中途半端な烏巣攻撃で淳于瓊の軍に糧秣を守り切られてしまったかも知れないと思えるのです。
曹操は最終的には官渡の戦いに大勝し、許にもどりました。
一方、袁紹は敗れて這う這うの体で黄河を渡って逃れ、帰還しました。それからふたたび離散した兵を収容し、背いた諸郡県を平定しました。
しかし結局建安七年(202年)に病死します。
このあと袁紹の子供たち(長男の袁譚、三男の袁尚)は兄弟であらそって、曹操はこれに乗じて、旧袁紹の支配地はすべて取り込むことに成功します。
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