2017年1月23日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (9)

さて袁紹の子供たちを滅ぼしたあと。建安十三年(208)の春正月に曹操は鄴に帰還し、六月に漢の丞相になります。

そして七月に曹操は南に向かいます。劉表征伐です。
「秋七月、公南征劉表」
と書かれています。

対する劉表は八月にあっけなく病死してしまいます。後を継いだ劉琮(リュウソウ)はなすすべがなく曹操に降伏し、曹操は首尾よく荊州をとります。

これに続くのが有名な赤壁の戦い(建安十三年十二月)です。
しかし、この三国志中の一大イベントについて、正史(魏書)の武帝紀ではおどろくほどあっさりとした記述しかありません。

公至赤壁與備戰、不利。於是大疫吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。

たったこれだけです。今鷹さん、井波さんの訳によれば、

“公(曹操)は赤壁に到着し、劉備と戦ったが負け戦となった。そのとき疫病が大流行し、官吏士卒の多数が死んだ。そこで軍をひきあげて帰還した。劉備はかくて荊州管下の江南の諸郡を支配することとなった。”
ということです。詳しい戦闘の様子の記述もなく、曹操や劉備の個性が躍動するようなエピソードもありません。

赤壁での敗戦の一年少々あとの建安十五年(210)の春に曹操は広く人材を求める布告をだします。この布告はある程度は有名なもので、曹操の考え方がでています。その布告のあとの方は次のようになっています。

「・・・若必廉士而後可用、則齊桓其何以霸世!今天下得無有被褐懷玉而釣于渭濱者乎?又得無盜嫂受金而未遇無知者乎?・・・」

今鷹さん、井波さんの訳によれば

“・・・もし必ず廉潔の人物であってはじめて起用するべきとすれば、斉の桓公はいったいどうして覇者となれたであろう。(管仲を指す)今天下に粗末な衣服を着ながら玉のごとき清潔さをもって渭水の岸辺で釣りをしている者(太公望呂尚を指す)が存在しないといえようか。また嫂(兄嫁)と密通し賄賂を受け取ったりはするが(才能をもち)魏無知にまだ巡り合っていない者(陳平を指す。魏無知に推挙される)が存在しないといえようか。”

この布告は首尾一貫していないところがあります。
人材は有能であればよく、必ずしも廉潔である必要はない、と言いながら、太公望を挙げていますが、彼はそこにも書かれているように清廉な人間で、渭水で釣りをしていた、とある通りです。斉の桓公に覇を唱えさせた人材として管仲を考えているとしたら、彼は特に悪徳がある訳ではありません。諸葛亮が自らを管仲に比していたくらいです。

結局廉潔でない代表例として出てくるのは陳平です。その為したる不徳が兄嫁との密通と、収賄です。そして曹操の人材観を表すことばとして妙に有名になり後世に残っています。

有能であれば聖人君子である必要がない、という意見は理解できるものです。政治・軍事でマキャベリストでもよいわけです。しかし聖人君子でない例が、兄嫁と関係し、賄賂も受け取る人なんてどうして挙げる必要があるのか理解に苦しみます。





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