曹操は建安十三年(208年)六月に漢の丞相になりました。しかし同年十二月に赤壁の戦いで敗れました。とはいえその四年後である建安十七年(212年)に特別扱いの臣下となります。
すなわち、拝謁の際に自分の名前を言わない、宮中での移動の際小走りに走らない、剣を帯び、履をはいて殿上に登れる、という特権をもつことになりました。
さらに建安十八年(213年)に魏公になります。位人臣を極め、大権力者になった訳です。
そしてこの年、献帝は曹操の三人の娘を迎えて貴人(皇后の次の身分)にします。ただ一番小さい娘は国で成長をまつことにしたとのことですから、ずいぶん小さかったでしょうね。とにかく曹操は娘を帝に押し付ける位の力をもつようになったのです。
ところで三国志の裴松之註がここでは変なことになっています。三人の娘が貴人になった記述があって、これについて註があって「献帝起居注」を挙げて、(献帝は)王邑を使者として璧、帛(しろぎぬ)、玄纁(ゲンクン=赤黒いきぬ)、絹五万匹を結納として贈ったことなどが書かれています。
そして、その話の後に、馬超、韓遂を打ち破った話と、任地に赴く毌丘興(カンキュウコウ)に、羌族へ人を遣いにやってはならない、と曹操が忠告した話が続きます。
この毌丘興の話にも註がついているのですが、毌丘興とは関係なくて、なんとまた「献帝起居注」の引用がでてきて、王邑が二人の貴人(最年少の子はまだ国にとどまる)を迎えとった詳細がくどくど書いてあります。
裴松之が何かの手違いをしたとしかか思われません。
さてこの二人の貴人が入ったということは、現皇后の伏氏が邪魔になったということです。
そして翌年の建安十一年十一月に、伏氏が父親(伏完)に送った手紙で、献帝が董承(彼は献帝から曹操討伐の密勅を受けた。)が処刑されたことについて曹操に恨みを抱いている、と書いた件が発覚し(あるいは発覚したと称され)、伏氏はもとより伏完とその一族が処刑されます。死者は数百人に上ったとのことです。
仮に伏皇后が邪魔だったとしても伏皇后に何の罪がありましょう。曹操のやり方はなんとも冷酷なものです。
かくて建安二十年(215年)に献帝は曹操の真ん中の娘を皇后としました。思い通りにことが運んだわけです。
建安二十三年(218年)に漢の大医令である吉本が少府の耿紀(コウキ)、司直の韋晃(イコウ)等と共謀して反乱を起こし、許を攻めます。結局これは失敗して彼らはみな死にます。彼らは、漢の帝位が魏に移項していくのが我慢できなかったのです。曹操は臣下として位も特権も上がる一方だったのですが、それが忠義な漢の臣下には、単なる昇進には見えず、曹操自身が権力を固めていく過程に見えたのでしょう。実際三国志の魏書にでてくる人材の多くは漢の臣というよりは魏の臣です。
この反乱事件の後始末で理不尽な話が「山陽公載記」に出てきます。この反乱で火が放たれたのですが、漢に仕える百官を鄴に召し寄せて、消火に加わったものは左、消火に加わらなかったものは右に集めます。
人々は消火に加わったといえば無罪になると考え、左につきました。すると曹操は消火に加わらなかったものは反乱を援助したはずはないが、消火に加わった者は反乱援助の賊だ、として全員殺した、とあります。こんなのは全く言いがかりというもので、漢の臣下であるものを無法に殺しているとしかみえません。
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