2017年2月6日月曜日

三国志 武帝(曹操)紀第一 (11)

建安二十五年(220)に六十六歳で曹操はなくなります。

陳寿は武帝紀の評で以下のようなことを書いています。なお、あとで劉備の伝の評と比べてみます。

「・・・太祖運籌演謀、鞭撻宇、擥申商之法術、該韓白之奇策、官方授材、各因其器、矯情任算、不念舊惡、終能總御皇機、克成洪業者、惟其明略最優也。抑可謂非常之人、超世之傑矣。」

今鷹さん、井波さんの訳によれば、
・・・太祖は策略をめぐらし計画を立て、天下を鞭撻督励し、申不害、商鞅の法術をわがものとし、韓信・白起の奇策を包み込み、才能ある者に官職を授け、各人のもつ機能を利用し、自己の感情を抑えて冷静な計算に従い、昔の悪行を念頭に置かなかった。最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成し遂げえたのは、ひとえにその明晰な機略がもっともすぐれていたためである。そもそも並みはずれた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。“

ほめてはいますが、曹操という人間の特色もうかがえる書き方です。評の前段の記述によれば、申不害と商鞅の考え方に則ったということです。
二人は中国の戦国時代の同時代人で、申不害はBC337年、商鞅はBC338年に死んでいます。ともに刑名の学(法家系統)を修めた人です。
申不害は韓の宰相として昭侯に仕え、法律至上主義は韓非子につながるといいます。ただ商鞅のような酷薄非情なことをやったわけではなく、国はよく治まったといいます。商鞅は秦に仕えました。富国強兵、農耕・織物奨励、連座厳罰主義、信賞必罰主義の人で、司馬遷に、「その天資、酷薄の人なり」、と言われています。

韓信、白起も有能な人間ですが、人としては問題ありです。
韓信は、項羽のところから逃げてきた鍾離眜をかくまっていました。しかし自身が高祖(劉邦)から謀反の疑いを掛けられたとき、鍾離眜の首を斬って差し出せば疑念が晴れると言った人の言を信じ、自分を頼ってきた旧知の鍾離眜の首を高祖に差し出しました。しかし結局は自分も助かりませんでした。
白起は秦の優れた将軍です。しかし長平の戦いで降伏した趙の士卒数十万ををことごとく阬(あなうめ)してころしました。残虐な人だったのです。

曹操も袁紹との戦いで同じことをやっています。阬した人数は七万とも八万ともいいます。先輩に倣ったわけです。

要するに有能ではあるが、冷酷な人が比較すべき人として挙げられています。

不念舊惡」(旧悪を思わず)
と書かれましたが、自分が不愉快な目にあわされたりしてもいつまでも根に持たない、という意味なら立派ですが、「嫂(兄嫁)と密通し賄賂を受け取ったりはする」が有能で使えるならO.K.と殊更いうのはどうかと思われます。

「終能總御皇機」
の部分の今鷹さん、井波さんの訳は
“最後に天子の果たすべき機能を掌握し、”
ですがどういう意味なのでしょう?天子の仕事をすべて行えるようになった、ということなのでしょうか?だとすれば僭越のような気もします。

では劉備について陳寿はどう見ているのでしょう。先主伝の陳寿の評は以下のようなものです。
弘毅寬厚、知人待士、蓋有高祖之風、英雄之器焉。及其舉國託孤於諸葛亮而心神無貳、誠君臣之至公、古今之盛軌也。機權幹略、不逮魏武、是以基宇亦狹。然、折而不撓、終不爲下者。抑揆彼之量必不容己、非唯競利、且以避害云爾。」

“度量が広くて意思が強く心が大きくて親切であって、人物を見分け士人を待遇した。思うに(漢の)高祖の面影があり、英雄の器であった。その国を挙げて遺児を諸葛亮に託し、心になんの疑惑も持たなかったこととなると、まことに君臣のあり方として最高のものであり、古今を通じての盛事である。権謀と才略にかけては、魏の武帝(曹操)に及ばす、これがため国土も狭かった。しかしながら敗れても屈伏せず、最後まで臣下とならなかったのは、そもそも彼(曹操)の度量からいって、絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、単に利を競うためというのではなく、同時に害悪を回避するためでもあったのである。”


劉備も非常にほめて書いてあります。彼については不徳をうかがわせるようなような記述がありません。以前にも書いたように、劉備は古代の人でありながら現代の人間からみても理不尽な残酷さが見えません。そして陳寿の見るところ彼は有能な人でもあったのです。




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