孔子の言葉として書かれた「論語」は今日にいたるまで読まれ続けています。しかし昔ほどには読まれず、内容を具体的に知っている人も減っていると思います。
日本においては江戸時代までは学者といえば儒学者(あるいは本草学者)のイメージがあったのではないかと思います。特に江戸時代においては伊藤仁斎、荻生徂徠、安井息軒などの大学者(=大儒)が輩出しました。
明治になって西洋の学問が流れ込み、学問としての儒学の勢いは相対的に衰えたと思います。
そして太平洋戦争の敗戦とともに、勢いを得たマルクス主義の影響などもあり、儒学思想はその尚古主義、秩序、上下関係尊重などの傾向から、無視される、あるいは否定的に扱われるようになり、ますます振るわない状態になっています。
孔子の学問を尊重して行こう、とする組織として私が知るのは湯島聖堂を本拠地とする斯文会です。斯文会は、明治十三年(1880)に岩倉具視と谷干城(西南戦争で熊本城に籠城した人)が斯文学会を創設したのに端を発し、その後明治四十年(1907)にできた孔子祭典会などを合わせて大正七年(1918)に斯文会となったものです。
私はこの組織自身も盛んとは言えない状況とみています。講演会はありますが、内容は諸子百家、漢詩、史書などにわたり中国古典の一般教養であり、儒学について極めるものではありません。斯文会が振るわないように見えるもう一つの理由は、根拠地たる湯島聖堂自身建屋の魅力のなさではないかと思っています。湯島聖堂は、寛永九年(1632)に林羅山が孔子廟を上野に建て、元禄三年に徳川綱吉がこれを湯島に移し、聖堂としたものが続いていることになってはいますが、大正十二年(1923)の関東大震災で建物の殆どが焼失しています。そして昭和十年(1935)に規模、構造すべてもとの聖堂にならって再建したといいますが、鉄筋コンクリート造りにしてしまったのです。気の所為かもしれないが、甚だ有難味がなく、聖堂としてあがめるのにはものたりなく感じるのです。
私は現時点で儒者を名乗る文化人を知りません。私の知る限りでは、もっとも近年でもはっきりした儒者は京都大学教授だった吉川幸次郎先生(1904-1980)だけです。吉川幸次郎先生は孔子を尊敬し、自らを儒者と称し、善之という字(あざな)をもっていた人でした。
吉川先生も亡くなってすでにずいぶん経ちました。
しからば儒学は時世に遅れたとるに足らない倫理道徳の教えでしょうか?
私は必ずしもそうは思いません。これを否定するのは、上を批判する、既存の制度を批判する、政府を批判する、ということが儒家には無条件に肯定されていない、ということによる、と思っています。
論語では確かに為政者の治め方、上に立つものの心構えについて説いてはいますが、本質は仁のこころに基づいた個人のあり方について説いているものです。新約聖書だの臨済録だのに、社会の在り方だの変革処方を求めるのは、ないものねだりであると同様に、論語にそのようなものを求めるのもないものねだりと考えます。
逆に、たとえば君子が憎むものを聞かれた時の孔子のことば
「惡稱人之惡者,惡居下流而訕上者,惡勇而無禮者,惡果敢而窒者」
“人の悪いところを言い立てるものを憎む。低い身分にいて上役を悪くいうものを憎む。勇気はあるが礼儀がないものを憎む。果断であるが道理のわからないものを憎む。”
という孔子の言、そのあと孔子に逆に憎むものを聞かれた子貢の言、
「惡徼以為知者,惡不孫以為勇者,惡訐以為直者」
“(他人の意を)伺い察して、それを智だとしているものを憎みますし、傲慢不遜でいて勇気とするのを憎みます。他人の秘密ごとをあばきたててまっすぐな人間と任じているものを憎みます。”
などのやりとりに、いつの世にも変わらぬ人間性への深い知恵、洞察力を感じます。
上記の問答はとりようによっては甚だ現状維持主義、権威主義にも見えますが、上の人、権威のある人を非難したり、悪いところところを暴露摘発して騒ぐ人間が案外陋劣で私利私欲にはしる人である、ということは現代でもありそうなことです。
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