2017年3月25日土曜日

論語(2);史記孔子世家 第十七 -(i)-

史記で孔子の生涯をみてみます。
よく知られているように、孔子の伝記はについては代々続く諸侯なみに世家(孔子世家第十七)として記述されています。まず今の山東省の陬邑(スウユウ)に生まれた、と書かれています。そして、”先祖は宋の人で、孔防叔といった。防叔が伯夏を産み、伯夏が叔梁紇を産んだ。”という記述があります。ここで叔梁紇(シュクリョウコツ)が孔子の父で、姓は孔で名が紇、字が叔梁です。

さてここで
紇與顏氏女野合而生孔子」
といきなり書かれています。すなわち、紇は顔氏(顔は姓)と野合し、孔子を産んだのです。そもそも当時の婚姻の制度がどうなっているか私は知りませんで、その後の父と母がいかなる関係だったのかもよくわかりません。
孔子が生まれてから父は死んだのですが、母が野合を諱んで、孔子に墓所を教えませんでした。正式の結婚をせず野合は体裁わるいですが、だからといって葬ったところを教えないとはよく理解できないところです。なお、孔子家語によれば父親が死んだのは孔子が三歳の時だそうです。
子供のころ遊戯をするとき常に礼器(祭祀の道具)をならべ、礼式を整えたのだそうです。あまり可愛げがないですね。
幼児のころ肝心の生活がどうなっていたのか、史記ではわかりません。

史記には記述がないですが母(名前は徴在)は孔子が二十四歳の時に亡くなったそうです。そして史記によれば、母が死ぬと孔子は魯の城内の五父(ゴホ)の衢(ちまた)に仮殯(かりもがり)し、のちに父の墓所を教えてもらって合葬したとのことです。
だとすれば二十四歳の時孔子はまだ父の墓所を知らなかったことになります。

このような生い立ちからして容易に推察されるように
孔子貧且賤
という記述が出てきます。そしてこの文のすぐあとに「及長」という句があるので、貧にして賤であったのは子供のころのことだったのでしょう。このあとの文は
及長,嘗為季氏史,料量平;嘗為司職吏而畜蕃息。由是為司空。」
です。野口定男さんの訳によれば
“成長するにおよんで、かつて倉庫の吏員になった。その料量は公平であった。かつて牛馬を牧養する司職の吏員になった。畜類は繁殖した。その功績で司空になった。”

司空という官位について野口さんは訳の註として単に(民事をつかさどる官)とだけ書いてどの程度えらいのか書いていません。なにはともあれ、孔子はどんな職でも全力を挙げて真面目に取り組み治績を挙げて順調に出世したように取れます。

その後、理由は書いてありませんが生まれ故郷の魯を離れることを余儀なくされ、各国で苦労をし、魯がまたよくしてくれるようになったので魯へもどったようです。
そして南宮敬叔という者が孔子と一緒に周へ行きたい、と魯王に嘆願し、その結果周で老子に会ったことが書かれています。これは孔子三十三~三十四歳のころだそうです。
この孔子世家においては、老子が孔子に与えた言葉は、以前に“老子韓非列伝 第三”で書いたのとは異なり、次のようです。
聰明深察而近於死者,好議人者也。博辯廣大危其身者,發人之惡者也。為人子者毋以有己,為人臣者毋以有己。
野口さんの訳によれば
“聡明で深く事理を察していながら、死ぬような目に遇うのは、他人を誹議することが好きなものだ。非情に能弁でよく物事に行きわたっていながら、その身を危うくするのは他人の悪をあばくものだ。人の子たるものは、我をもっていてはいけないし、人臣たるものは我をもっていてはいけない。”
要するに、前段では、人のことをあれこれ言ってはいけない、後段では我を立てようとしてはいけないと言っているのでしょう。
この部分は孔子の意見として書かれているわけではないのですが、孔子自身の考え方もこれに共通するところがあると思います。

処世のため、明哲保身の術としてならあまり魅力的ではないですが、個人のありかたとして、人のことをあれこれ言っても自分がえらいわけでもなく、人の悪をあばいても自分が誠意のある人という保証もされない、という認識は、心得ておくべきことと思います。





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