孔子が再び魯に戻ったあと、斉の景公への政治についての献言の話が続きます。これらの献言が以外と面白くないのです。
斉の景公が晏嬰とともに魯にやってきて、秦の穆公が僻地にいたのになぜ覇者になれたか孔子に質問します。これに対して孔子は、「秦は国は小さかったけれど、志が偉大で、行いが中正で(秦,國雖小,其志大;處雖辟,行中正。)、しかも優れた人材を登用したのだから、本来王者になれたのだ。覇者にとどまったのは(むしろ)卑小だ、」と答えます。
カッコ内に挙げた部分は原文で主語は書いてないのですが、国は小さいけど穆公の志が大きく、土地は僻地だったが穆公の行いが中正(偏らず正しい)ととるのだと思っています。
これを聞いて景公は喜んだそうです。
確かに現今の会社だって、社長が中正にして有能な人材に力を揮わせたら業績は上がるでしょうね。しかしこれはそんなに重大な示唆なのでしょうか?
つぎに出てくる、景公が政治を孔子に質問した時の問答は以下の通りです。
「景公問政孔子,孔子曰:「君君,臣臣,父父,子子。」(論語
顔淵第十二)
つまり政を景公が問うたのに対し、
“君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです。”
と答えたわけです。古代中国語を知らないですが、この言葉は、見た目は気の利いたに文に見えるのかもしれません。しかし内容はそう実のあるものには見えません。
君、臣、父、子がそれぞれ従来の慣習に従えばうまくいくというほどに政治は簡単でしょうか?
そのあとで孔子は景公に
「政在節財」
といいます。政治の要諦は節約だと説きます。そこで(単純な人らしい)景公は喜んで孔子を封じようとします。しかしここで先に話にでた晏嬰が進言します。
「夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順,不可以為下;崇喪遂哀,破產厚葬,不可以為俗;游說乞貸,不可以為國。・・・今孔子盛容飾,繁登降之禮,趨詳之節,累世不能殫其學,當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗,非所以先細民也。」
守屋洋さんの訳(意訳)によれば
“儒者は口がうまいのです。ですが、かれらの言うことをそのまま実行にうつしたら、とんでもないことになります。かれらは傲慢で自信家ですから、下役人として使うことができません。また彼らは服喪の礼を重視し、家産を傾けても葬儀を盛んにしますが、それを人民がみならったらこれまたとんでもないことになります。そのうえ、かれらは諸国を遊説して乞食まがいのことまでしています。そんな連中に国の政治をまかせてはなりません。・・・今孔子は儀礼を盛んに飾り、登降、歩行の礼を煩雑にしました。今の世に古の礼を復活しようとしても徒労に終わることは明らかです。わが君がこのような人物を任用されるのは、決して人民のためにするゆえんではありません。”
です。
一方孔子の方は晏嬰を高く評価しています。論語の中に晏嬰をほめたことばがあります。しかし実務家である晏嬰の方は孔子を否定しています。
晏嬰は儒家の政治の実務についての見識に危うさを見たのかもしれません。一方において、この件については、孔子を登用しようとした経緯が、孔子が「政治の要諦は財政の節約」と言ったのを景公が喜んで孔子を封じようとしたということですから、老練な政治家晏嬰でなくてもちょっと待ってください、と言いたくはなると思います。
しかし、個人道徳において聞くべき言が多々ありながら、政治そのものになるとどうもからまわり、という体質が儒家にはあるのではないでしょうか。
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