恵帝は二十四歳でなすところなく亡くなったのはすでに書いた通りです。呂后はこのひ弱息子の早世は読んでいたのかもしれません。恵帝が死んでも自分の影響力を残せる跡継ぎを確保しておく必要があります。
ここから先は呂后の陰謀がどろどろしたものである結果(?)、記述もどろどろしたものになります。
呂后の娘で恵帝の姉である魯元公主の娘、即ち恵帝の姪を皇后に立てます。史記にはなぜか
「宣平侯女為孝惠皇后時,無子」
“宣平侯の女(ムスメ)が孝恵帝の皇后であった。子がなかったので。。。”
とかかれています。これだけ読んだのでは皇后の正体はわかりません。
しかし史記でその前の方を読むと
「魯元公主薨,賜謚為魯元太后。子偃為魯王。魯王父,宣平侯張敖也。」
“魯元公主が死んで、魯元太后と諡(オクリナ)を賜い、その子の偃(エン)を魯王とした。魯王の父は宣平侯の張敖(チョウゴウ)である。”
と書いてあるので、魯元公主の連れ合いが宣平侯張敖であることがわかります。よって“宣平侯の女”と書かれた女性は魯元公主の女(ムスメ)つまり姪だと分かるようにはなっています。
漢書高后紀(漢書での呂后の本紀です。)はもっと分かりやすく
「太后立帝姊魯元公主女為皇后,無子,…」
とあります。小竹武夫さんの訳によれば
“太后は帝の姉魯元公主の女(ムスメ)を皇后に立てたが、子がなかったので…”
となります。
自分の息子の恵帝に、自分の娘の娘である、恵帝にとっての姪をくっつけるとは随分強引だし、母の愛など感じませんね。
呂后は何がなんでも漢王朝の中で呂氏の血を濃くしたいようです。
ここまでで“子がなかったので…”のあとを書きませんでした。
史記によれば、“いつわって妊娠したふりをして、後宮の美人(女官の位)の子を引き取って実子と称し、その母を殺してその子を立てて太子とした。孝恵帝が崩ずると太子が立って帝となった。”とあります。これもまた乱暴な話です。
因みに漢書では、子供を産んだ美人を殺したという記述が何故か省かれています。
この子供でっち上げ工作は、史記でも漢書でも魯元公主の娘が自分の立場の確立のために自発的にやったなどということではなく、呂后の差し金という話になっています。これだけのことをやる動機を考えると調達した子供が劉氏の子供ではなくて、呂氏に繋がる子供ではないか、という気がしてきます。
一方史記では、恵帝が女官に産ませた子として彊(淮陽王)、不義(常山王)、山(襄城侯)、朝(軹侯(シコウ))、武(壺関侯)が挙げられています。(ところがあとから否定の話も同じ呂后本紀の中で出てきます。)してみるととりあえず美人が生んだ子供の父は誰なんだということになります。もっとも呂氏が亡んだあとでは、恵帝の子とされる上記の王や侯達も恵帝の子供ではないとされます。これらもすべて呂氏の縁者だった疑いがあるわけです。
ところがなんでも自分の思う通りにいくものではなく、この美人が生んだ帝は、後宮の誰かから実母が殺されて皇后の息子にされた、ということを聞いてしまいます。大いに不満で、
「…我未壯,壯即為變」
“わしはまだおとなになっていないが、おとなになったら変乱を起こしてやろう”
と言います。しかしこんなことを口にだすと、呂后にご注進する奴が出てくるに決まっています。話を聞いた呂后は心配になり、この帝を病気ということで幽閉し、その後廃位し、殺します。この帝は子供ですが、呂后は情け容赦はしません。
その結果、常山王の義(不義が死に、襄城侯の山が名前を義にかえて常山王になっていました。)をたてて帝とし、名を弘と改めさせます。そもそも殺された(美人が生んだ)帝が劉氏でないのなら、あとの帝である弘はとても劉氏とは思えませんね。
なお史記では確かに「常山王」とあります。しかし漢書ではこの王は恆山王と書かれています。しかし名前は弘で同一人物には間違いありません。
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