すでに史記 呂后本紀 第九(3)のところで書いたように、呂后は高祖の天下取りに寄与した功臣を何人も殺しました。そして高祖亡きあと、ライバルだった戚妃の子供、如意を殺し、戚妃を惨殺しました。
一方で実家の呂氏の人間を取り立てました。
高祖亡きあとの呂后にとって邪魔になるのはまずは劉氏の子供たちです。恵帝の二年、恵帝の異母兄である斉王が楚王と共に来朝しました。十月恵帝は斉王と共に呂后の前で酒宴を開きます。この時、呂后は、酖毒を入れた卮(サカズキ)を斉王の前に置き、斉王に起って寿をことほぐように命令します。この時の状況は史記に次のように書かれています。
「孝惠以為齊王兄,置上坐,如家人之禮。太后怒, 乃令酌兩卮酖,置前,令齊王起為壽。齊王起,孝惠亦起,取卮欲俱為壽。太后乃恐,自起泛孝惠卮。齊王怪之,因不敢飲,詳醉去。」
野口定男さんの訳によれば次の通りです。
“孝恵は斉王が兄だからと思って、天子と諸侯という形式をとらず、家族の礼式のように兄たる斉王を上座にすえた。太后は怒って、二つの卮(サカズキ)に酖毒をついで前におき、斉王に起(た)って寿をことほぐように命じた。斉王は起った。すると孝恵(恵帝)も起って、卮をとってともに寿をことほごうとした。太后はおそれて、みずから起って孝恵の卮をひっくり返した。斉王は怪しんで、あえて飲まず、酔ったふりをして立ち去った。”
呂后は目的のためには手段を選ばず毒殺平気という人であることがよく分かります。今度の例では’斉王を兄として上座においたから怒って、’と書いてありますが、そんなことで俄かに殺害をおもいつくとは考えられません。初めから斉王は亡き者にしたかったのでしょう。
しかしわからないのは斉王に自分(呂后)の寿をことほがせたいならば、毒杯はひとつあればよいのです。なぜ二つ用意させたのでしょうか?
次に恵帝のやったことはなんだったのでしょう。この文面だけからいうと、素人判断では卮(サカズキ)が二つあったのだからなんとなく自分も母の寿をことほがないといけないと思った、という解釈も可能です。
しかしそうではなくて呂后が斉王の毒殺を図っていることを危惧したという解釈が多いようです。でも一緒に乾杯したら自分も死んでしまいます。しかもこれでは斉王を助ける目的も叶いません。愚行の発作にしか見えません。この場合やるなら、恵帝が酔ったふりをして起ちあがり、斉王の卮をひっくり返すくらいのものです。でもお代わりの卮があるのでこのままでは収まりません。
史記によれば上述の通り呂后が恵帝の卮をひっくり返したので、斉王も怪しんで寿をことほぐことをせず、飲まずに帰ってしまう、という後味の悪い話になっています。
この記述では、このまま酖毒のことを不問にする恵帝は軟弱というか婦女子の情けしか知らない情けない人に描かれてしまうことになりますね。
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