2015年7月6日月曜日

史記 呂后本紀 第九(2)



ところで、呂后の立場が強くなるには自分の息子が跡継ぎになれるかどうかが決定的です。これについては張良の助言によったという話があります。留侯世家 第二十五に出ています。漢書の張陳王周伝第十にも同じ記事があります。史記をそのままもってきたのでしょう。

高祖が呂后の子供を廃して、戚夫人の子如意を立てそうな形勢で呂后は苦しんでいた訳ですが、ある人が呂后に
「留侯善畫計筴,上信用之。」
と言います。野口定男さんの訳によれば
“留侯はよく計策を立て陛下が信用しておられます。”
と進言しました。要するに張良の知恵を借りろということです。そこで呂后は建成侯である呂澤に命じて留侯を脅迫させた、(「呂后乃使建成侯呂澤劫留侯」)とあるのが驚きです。日との知恵を借りようというのに脅かした()のです。しかし文面からすれば
「君常為上謀臣,今上欲易太子,君安得高枕而臥乎?」
即ち
“あなたは常に陛下の謀臣です。いま、陛下が太子をかえようとのぞんでおられますのに、あなたはどうして枕を高くして横臥しているのですか。”
ですから責めると言っても大して強くない程度に見えます。(この言葉の本当のニュアンスは私にはわかりません。)

で、結局高祖が招致できない四人の老人(商山の四皓と呼ばれる人)を今の太子の補佐をさせるような形にしてはどうか、と提案します。
そこで呂后は呂澤に命じて太子の書面を以て辞をひくくし、礼を厚くして呂澤のところの賓客にします。のちに宴席で太子を輔佐しているような形で、高祖に紹介します。高祖は偉い四人の老人が輔佐している以上、後継者としての太子を廃さない、という今風の表現なら、斜め上の結論をひねり出します。
これはいかにも作り事に見えます。四人が提案した史記に書いてあるものと言えば、鯨布が反乱を起こし、太子が鎮定軍の総大将として送り出されそうとするときに、これで太子が出かけて手柄を立てそこなったら禍を招き、逆に成功してもこれ以上偉くなれない。しかも部下として連れていくは歴戦の猛将で、若年未経験の太子には制御できない。だから高祖自ら征伐するように仕向けるべき、と呂澤に言ったことだけです。呂澤から呂后を通じて高祖が自ら出馬するようになりました。
これは高祖に直接提案されるような話ではありません。
即ち高祖にとっては四人の老人は評判だけ聞いている人です。
高祖は建言において聞くべき話なら聞き入れています。だから成功したのです。聞くべき建言を述べてくれる人、あるいは手柄を建てた武将は優れた人材と評価します。でも偉いという評判の人が輔佐したことだけで、かねて自分に似ず、仁弱と評価している太子を最終的に跡継ぎに決める、というのはおかしな話です。

この張良の助言とその後の流れについて古来偉い人がどのような論を建てているのか存じませんが、私は納得できません。むしろ張良を含む臣下が、正嫡の長子を捨てて、下の側室の子供を立てることを諌めたからしぶしぶ聞き入れたと思っています。

しかしとにかく呂后の子供は太子の地位を剥奪されずに済んだのです。
そして高祖は死に、太子が帝位に就きます。さあ、そこからが冷酷で権勢欲の強い呂后の出番です。





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