呂后という人は漢の高祖の后です。
史記では、高祖と呂后の間に生まれた男子で高祖の次に帝位に就いた恵帝には本紀がなく、実際に権力を振った高祖未亡人である呂后の本紀のみあります。恵帝は影が薄い皇帝で、実質天下を抑えていたのは呂后だったからです。司馬遷の考えている本紀とはそういう性質のものなのです。
史記では、高祖と呂后の間に生まれた男子で高祖の次に帝位に就いた恵帝には本紀がなく、実際に権力を振った高祖未亡人である呂后の本紀のみあります。恵帝は影が薄い皇帝で、実質天下を抑えていたのは呂后だったからです。司馬遷の考えている本紀とはそういう性質のものなのです。
ちなみに漢書では、恵帝の本紀である恵帝紀第二があり、続いて高后紀第三(呂后の本紀)がある、という構成になっています。
呂后は高祖がまだ微賤であったころからの高祖の妻です。高祖との間には上に書いた恵帝と、魯元太后を生んでいます。ところが高祖が漢王になったころ戚姫を手に入れました。そして戚姫は寵愛を受け、趙の隠王如意を生みます。ここから暗雲漂う話になります。
「孝惠為人仁弱,高祖以為不類我,常欲廢太子, 立戚姬子如意,如意類我。」
野口定男さんの訳によれば
“孝恵(漢の歴代の皇帝は高祖以外は諡号に’孝’がつきます。)の人となりは仁弱で、高祖は自分に似ていないと思い、常に太子を廃して戚姫の子の如意を立てようと望んでいた。如意は自分に似ていると思っていたのだ。“
となっています。その上、戚姫は高祖が函谷関から東へと討ってでるとき、つねにこれに付き従って日夜啼泣して如意を太子にしてもらいたいと高祖に訴えたのです。
一方呂后の方はすでに年嵩で、高祖にも会う事も希で高祖の方も疎んじる状態でした。
この状況は呂后にとっては大いに不満であり、かつ危機を感じる原因になることは誰にでも理解できます。自分は、もともと高祖が偉くもない時から共に過ごし、支えてきた正妻なのに対し、戚姫は高祖が漢王という相当な有力者になった頃に現れた愛人です。自分の生んだ子が跡継ぎにならず、後から来た愛人の生んだ子供が跡継ぎになってしまいそうなのです。
それに、容色の衰えた呂后から寵愛が若くて綺麗な戚姫に移ることは多少我慢ができるかも知れませんが、その戚姫が寵愛をいいことに自分の子供を太子にするよう日夜高祖に迫っていることを聞いたら呂后ならずとも殺意を覚えるのも仕方がありません。
なお、漢書高后紀第三ではこのあたりのいきさつはなにも書いてありません。
出発点はここですから、呂后が自分の立場が強くなれたら戚姫と如意に制裁を加えようと考えていたとしても、仕方がなかったのです。ここまで呂后がさほど非道とはいえなかったのですが…
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