2015年6月19日金曜日

史記 白起・王翦列伝 第十三 王翦(3)

王翦は荊軍を破ります。その後の戦いを経て荊は秦の郡県になり、その後王翦の子供の王賁、および李信が活躍し、燕、斉も下して秦の始皇帝の26年に秦により天下が統一されます。
「秦始皇二十六年,盡并天下,王氏、蒙氏功為多,名施於後世。」
という記述があります。王翦、王賁の出た王家、蒙恬の出た蒙家は功績が大きく、後世まで名声を伝えられたのです。

しかし、秦の統一による平和は長くは続かず、二世皇帝は愚かで、陳渉、呉広の乱が勃発します。この時に王翦や王賁は死亡しておりました。(蒙氏は気の毒にも亡ぼされていました。)王翦の孫の王離というものが当主で、趙王と張耳を鋸鹿(キョロク)城に包囲します。この時に次のようなエピソードが出てきます。
「或曰:「王離,秦之名將也。今將彊秦之兵,攻新造之趙,舉之必矣。」客曰:「不然。夫為將三世者必敗。必敗者何也?必其所殺伐多矣,其後受其不祥。今王離已三世將矣。」
野口定男さんの訳によれば ”ある人が言った。 「王離は秦の名将だ。いま、強大な秦の兵をひきいて、新しく出来たばかりの趙を攻めている。攻略するのは必定だ。」
するとその人の客が言った。
「そうではありません。そもそも、三代にわたって将軍となる者は必ず敗れます。どうしてかと申しますと、祖父や父が殺したり伐ったりした者が多いので、子孫がその不祥を受けるのです。ところで王離はすでに三代目の将軍です。」”

この客の話は、大して説得力のあるものではないのですが、実際に王離は趙を救援した項羽に破られて虜になります。

この伝の末尾に司馬遷は王翦について秦の将として六国を平らげて大手柄を立てたことを述べたあと次のように言っています。
「然不能輔秦建德,固其根本,偷諭合取容,以至圽身。及孫王離為項羽所虜,不亦宜乎!彼各有所短也。」
”しかし、秦王を輔弼して徳をたて、国家の根本を堅固にすることができず、いたずらに始皇帝と調子をその意にかなう態度をとり、そのままついに死没した。そして、孫の王離の代になって項羽にとりこにされたが、当然のことではないか。”

しかしながら司馬遷がなんといおうと、王翦について言えば、秦の天下統一におおきな寄与をし、始皇帝にゴマを擦りまくって資産を得て結構な老後をおくったのですから、まずもって彼は結構な人生だったと思います。天の報いは蒙っていません。

一方で司馬遷の批判はもっともなもので、秦で大手柄を立てて高碌を食む高官になったのであれば、秦の国家に胚胎する危険因子を除くべく、宦官を抑え、有能でまともな長子が立つようなすべきだったでしょう。それをせず、戦場を離れては我が身、我が一族の安泰と利益を感がるだけでは一流の人間ではない、というのはもっともです。しかし記述はそこにとどめておくべきだったのではないでしょうか?

孫の王離の話を持ち出して、強いて言えばそういう国家安泰の策を講じていれば陳勝、呉広の乱も勃発せず、結果的に王離も戦に敗けることはなかったという可能性を示唆できるのかも知れませんが、これは因果関係が遠すぎます。孫の悲運は孫が勝手に陥った話で王翦の無策とは直接に関係はないでしょう。司馬遷は王翦のようなことをやって何事もなく、畳の上で死ねるのは納得がいかなかったので、無理して王離の因果話をくっつけたように見えます。

しかし、このような振る舞いをする人は古来珍しくないどころか、当今とても、真に会社の長久の策を挙げず、目の前の社長あるいは上司の意に沿うことをひたすら目指し、うまく会社を勤めあげる役員などざらにいると思います。 私利私欲を追いつつも、それが小は会社の利益、大は国家の利益に繋がるようにしてゆく人材が望ましいと誰しもが思うでしょうがなかなか多くは出てきませんね。




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