2015年7月11日土曜日

史記 呂后本紀 第九(3)



史記呂后本紀で太子が廃されないで済んだ、との記述の後にいきなり次の言葉があります。
「呂后為人剛毅,佐高祖定天下,所誅大臣多呂后力」
“呂后は人となりが剛毅で高祖を助けて天下を平定し、大臣を誅殺したのは、多くは呂后の力であった。”
ということです。確かに淮陰侯韓信を鐘の間で斬り三族を誅殺したのも、蜀に護送されていた彭越を高祖のところへ連れ戻し、家来に弾劾させて族滅をさせたのも呂后です。高祖なら曾ての仲間としての情もあったでしょうが呂后はそういう情には負けません。というか情けはかけない人です。なんのためにそんなに冷徹に頑張ったのか?
漢王朝のためではなくてむしろ実家の呂氏一族のためでした。

呂后の二人の兄は将軍になりました。長兄の周呂侯は亡くなり、子供の呂台が酈侯(レキコウ)、呂産が交侯となりました。次兄呂釋之は建成侯になっています。いずれも要するに呂后(妹)の七光りです。

史記の記述では、高祖が死んで太子が帝位について冷血女の呂后が最初にやったのが、太子のライバルだった戚夫人の子供趙王の殺害です。
趙王を召喚するのですが、趙の宰相の建平侯周昌が抵抗します。史記によれば周昌は勅使に驚くべき回答をしています。
「高帝屬臣趙王,趙王年少。竊聞太后怨戚夫人,欲召趙王并誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉詔。」
野口定男さん達の訳によれば
“高帝は臣に趙王のことを委嘱されました。趙王はまだ年少です。ひそかに聞くところによりますと、太后は戚夫人を怨み、趙王を召し寄せて誅殺なさろうとのぞんでおられるとのことです。臣はあえて趙王をお遣(オク)りいたしません。かつまた趙王は御病気です。詔を奉ずることはできません。”
です。
ここからまず、趙の宰相は高祖劉邦から趙王をよろしく頼むと言われていたことがわかります。それはいいですが呂后が趙王を殺したがっている、ということ勅使に対して口に出しています。こんな回答を呂后に復命されたらあとあと怖いだろうと思うのですが

呂后は怒って趙の宰相を召喚させます。それから趙王を召喚させます。ところが即位した恵帝が情け深い人で、母である呂后のたくらみを懸念し、趙王が宮廷に来る前に覇上で出迎えともに宮廷に入り、起居飲食を共にして庇ったのです。だけどある日、恵帝は早朝に狩りにでかけ、趙王は幼少で早起きできなかったので一人になりました。その時を狙って呂后は酖毒を飲ませて首尾よく趙王を殺させてしまいます。

恵帝という人は情け深いとは言われてはいますが、結局不十分なことしかしていません。これまで宮廷内で自分がずっと付き添っていたくらい危ないと思われる場所ですから、一人で宮廷で寝坊させては非常に危険に決まっています。ならば狩りに行くにあたり幼少の王を無理やり起こして同行させることもできたし、やるべきだったのです。さらには皇帝なのだから、狩りに行くより前に、そんな危ない宮廷の状態を人事や制度によって徹底的に改めるべきだったのです。

そして彼は趙王の母である戚夫人を守ってやることもできません。





歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿