2015年7月19日日曜日

史記 呂后本紀 第九(4)



高祖劉邦は恵帝は仁弱で自分に似ていない。だから戚妃の生んだ如意を立てようと望んだ、という記述が呂后本紀の冒頭に出てきます。

漢書の恵帝紀によれば彼が五歳の時漢王となったとあります。漢書ではこの年を高祖の元年(BC 206)と数えています。その二年に太子になり、十二年に高祖崩御とあります。つまり恵帝が帝位についたのは十七歳頃だったと思われます。一方如意は史記の呂后本紀によれば高祖が漢王になったころ戚妃を手に入れた、とあり、それから如意が生まれるまで十か月以上はかかりますので、早くて高祖の二年に生まれたことになります。高祖崩御の時でもまだ十歳くらいの筈です。恵帝については自分に似ず仁弱だというのはかろうじて高祖はわかったかも知れませんが、如意が自分に似てしっかりしている、とは簡単には判断できなかったのではと思います。如意を太子にすべきだろうと判断するのは、戚妃への情がらみと見えます。

さて呂后が戚妃に対してやったことは残虐の極みです。
「太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲瘖藥,使居廁中,命曰「人彘」」
野口さんの訳によれば
“太后はいよいよ戚夫人の手足を断ち切り、眼球をくりぬき、耳を薫(クス)べてつんぼにし、瘖薬を飲ませて唖(オシ)にし、便所の中において、「人彘」(ヒトブタ)と名付けた。”
という有様です。戚妃がこれで生存していたのか死んでしまっているのかこの文を読んだ限りではわかりません。どこかの本で数日は生きていたとの記述をみたことがありますが
さらにそのあとがまたひどいです。呂后はわざわざこの「人彘」を恵帝に見せます。なぜ恵帝に見せる必要があるのでしょう?恵帝が喜ぶ訳はありません。自分が勝ち誇ったところを見せたかったのでしょうか。いくら古代の人のやることとは言え、これでは呂后は吐き気がするような人柄だと言わざるを得ません。

その呂后の子供である恵帝についての仁弱とはきれいごとな表現です。要するに卑怯で行動力のない男です。
史記によれば
「孝惠見,問,乃知其戚夫人,乃大哭,因病,餘不能起。使人請太后曰:「此非人所為。臣為太后子,終不能治天下。」孝惠以此日飲為淫樂,不聽政,故有病也。」

“恵帝は見て質問し、戚夫人であることを知る。そこで大いに哭き、そのために病気になり、一年以上たつことができなかった。そして人をやって太后にお願いした。「これは人のやることではありません。臣(私)は太后の子として、とても天下を治めることはできません。」恵帝はこうして毎日酒を飲んで淫楽し、政治を聴かなかった。病気になったのはその所為である。”

彼は殺された趙王の生みの母である戚夫人も危ないことは分かる筈です。しかし彼は何も対策をしていません。しかも戚妃が残虐な仕打ちをされたあとでも、呂后の力を奪う努力もせず、天下を治めることができないと言って酒飲んでいただけでした。そして二十四歳でなすところなく死にました。

高い地位とそれにともなう権力を持ちながら天下にとってよいことをしないばかりか、自分の周囲の人にも貢献しなかったのです。地位も権力もない人間の無為無策よりも遥に罪が重いです。
酒におぼれていれば恐ろしい母親に命を狙われる危険がないとでも思ったのでしょうか。だとすれば、まさにいない方がましだった皇帝です。






歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿