2013年8月31日土曜日

三国志 魏書;荀彧荀攸賈詡伝第十 荀彧伝(3)



この時代に滅びかかっている漢王朝を立て直したい、と考えたのは荀彧ばかりではありません。
その努力したとみなされる代表が正史の裴松之註の中に語られています。

このブログの蜀書 諸葛亮伝 第五(2)に引用した裴松之の註をもう少し長く書きます。
苟不患功業不就、道之不行、雖志恢宇宙而終不北向者、蓋以權御已移、漢祚將傾、方將翊贊宗傑、以興微繼克復爲己任故也
井波さんの訳によれば
かりに功業が成就されず、理想を遂行できないのを気にせず、宇宙よりも大きな志を持ちながら、あくまでも北方(魏)に臣服しなかったのは、つまりは権力がすでに移行し、漢朝がまさに滅びんとするにあたって、皇族の英傑を輔佐して、衰微断絶の状況にある王朝と立て直し復興することを自己の責務としたがためである。…”

即ち諸葛亮こそ滅びんとする漢王朝を立て直したいと努力した当時最大の人物だったとみなされているわけです。実際彼はその信念を以て、大手を広げて曹操の前に立ちはだかり曹操の天下取りを妨げた人物といえます。

諸葛亮は後主劉禅に本を書写して献呈していますが、それらは申子、韓非子、管子、六韜といいますからむしろ法家的で、諸葛亮は儒者ではありません。
しかし諸葛亮は君主に誠意をつくし、名声と徳を兼ね備えた古代の道徳家でありました。そしてその点で、後世においてもあがめられ続けた人間です。その結果多少儒者的にも見えます。

誠意をもって君主に仕え、政をするとは、良き政治を行って人民を幸福にする、ということに通じますから、近現代の人民のためと称する政治家の活動と対比して、現今の目で見て決して馬鹿にできるあり方ではないと思っています。

ここで話を荀彧に戻せば、彼はむしろ劉備に仕えた方がよかったと思います。劉備は人を見る目と人を容れる度量があります。

三国時代において、魏は後漢の献帝を差し挟んで天下に号令し、その間は漢を盛り立てるという正当性を主張した筈です。しかし荀彧が失望したように簒奪の手段でしかなかったのです。簒奪後、禅譲により漢を引き継いだ、という大義名分は当時の人にとっても心に響かない訴えでしょう。
呉は正当性を有しない、あるいは主張しない、地方政権です。孫権は魏の曹丕と蜀の劉備が帝位についたから自分も就いただけです。
蜀は漢を支えるのは自分達だと主張していました。献帝が廃されて殺された、という情報により劉備が漢の血筋である、ということを根拠に帝位に就いて、正当な漢の後を継ぐものだと主張しています。

劉備は蜀書 先主伝第二によれば、
「漢景帝子中山靖王勝之後也。勝子貞、元狩六年封涿縣陸城亭侯。坐酎金、失侯、因家焉。先主祖雄、父弘、世仕州郡。雄、舉孝廉、官至東郡范令。」
とあります。井波さんの訳によれば
“前漢の景帝の子、中山靖王劉勝の後裔である。劉勝の子供劉貞は、元狩六年(BC117年)涿郡の陸城亭侯に封ぜられたが、酎祭の献上金不足のかどで侯位を失い、そのままこの地に居住するようになった。先主の祖父は劉雄、父は劉弘といい、代々州郡に仕えた。劉雄は孝廉に推挙され、官位は東郡の范の令にまでなった。”
とあります。劉備自身が延熹4年(161年)生まれですから中山靖王の子供が涿郡の陸城亭侯になってから278年後です。しかも劉備の祖父や父が官位についています。
自分個人の場合でもおよそ300年前(正徳年間)の御先祖様が何者で何をしたか知っています。ましてや昔の人は家柄、血筋を大事にしているはずです。劉備の血筋を簡単に怪しいという人がいますが、私は正史の記述を十分に信用できるものと思っています。

劉備は、他に適当な人材がいなければ彼を立てることで漢室を支えたという道徳意識は満たされるものと考えられます。実際、諸葛亮はそうだったのでしょう。

また諸葛亮は人の才に嫉妬して陥れるような人ではありません。魏に逃れた黄権が常日頃司馬懿に諸葛亮を褒めている位(先主伝第二(2))で、人から尊敬される人です。荀彧は魏ほどには安泰ではない国かも知れないが、蜀に仕えた方が満足が得られたのではないかと思います。






歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿