荀彧は曹操に仕えた智謀の士です。彼の仕事、彼の人生をどう考えるかが問題にしたくなるのは、彼が曹操の簒奪に反対し、憤死したからです。
三国志演義の第六十一回では、次のような話になっています。
曹操は功績が大きいから魏公となり九錫という特典を受けるに相応しいと董昭が提案した。
荀彧は、丞相(曹操)は漢室を護持するために義兵を挙げたのだから九錫はふさわしくないと反対した。
曹操は顔色を変えた。(怒った。)
董昭は荀彧の反対を押し返して奏上した。荀彧は涙を流して嘆いた。曹操は荀彧を深く憎んだ。
曹操は江南征伐に荀彧にも従軍を命じ、荀彧は曹操が自分を殺す気になったことを知り、病をおして従軍した。
曹操からの使者が箱入りの食物を持ってきたが、その箱には曹操の直筆で封がしてあった。箱を開けたら中は空だった。荀彧はそれで曹操の心を悟り、毒を飲んで死んだ。
ここで、九錫は、特別の車馬、特別の衣服、特別の楽器の並べ方と舞人、朱戸(赤門)、宮殿に登る専用階段、特別の斧鉞(おの、まさかり)、弓矢(特別の弓と矢)、特別の酒です。王莽も受けた天子になる予定らしき人の特典です。
正史での表現は荀彧の死について多少曖昧な言い方です。
董昭らは曹操の位を進めて国公とし、九錫を受けるようにしたらどうかと荀彧に提案した。
荀彧は太祖(曹操)が義兵を挙げたのは、朝廷を救い、国家を安定化させるためだったはず、と反対した。
曹操はこのことがあって心が穏やかならざるものがあった。(「太祖由是心不能平」)
曹操は孫権征伐に当たり、荀彧が従軍するように上奏した。(荀彧は漢の臣下なので曹操は天子に派遣を要請したわけです。)
従軍した荀彧は発病し、寿春に残留し、憂悶のうちに死亡した。(「以憂薨」)
とあります。なお、曹操より空の食物の器を送られて毒を飲んだ、という話は「魏氏春秋」にあります。
演技と正史で微妙に違いますが、荀彧にとっては曹操の簒奪は非常に彼の意に反することだったことです。彼の努力は何だったろうかと考えたくなります。
荀彧荀攸賈詡伝第十の末尾で陳寿が評して、「然機鑒先識、未能充其志也。」 つまり“先見の明がありながら自己の理想を完全に実現することは出来なかった。”と書いています。、裴松之はそれに註をつけて、以下の反論をしています。
荀彧の志は漢の臣下として、漢室を再興することであったのに、曹操の簒奪をたすけて結果的に漢王朝を傾けた、簒奪に反対の立場をとったもののどうにもならず、全体として見れば、やったことは道義に外れたことへの手助けであり、彼の見識に問題があった、という世間の評価があり、陳寿もそれに従っている。
しかしその見方は正しくない。荀彧には、曹操が漢の忠臣のままでいる気がないことは見えていた。しかし、「不有撥亂之資、仗順之略乱世」つまり、乱世を正す資質、乱世に従った構想がないなら、漢はたちまち滅んでしまったろう。誰か天下の乱れを鎮めるべき人材に力をかしたかった。その能力がある人材が曹操だった。そのおかげで漢室は二十四年も長らえることができた。そして漢を滅亡させようとする行動がはっきりしてきたところで(「翦漢迹著」)、身を滅ぼし節に殉じて本当のこころを表した。よって彼は立派に仕事をした、というのです。
でも、裴松之のこの理屈はしかしどうみても無理があります。
曹操が忠臣ではなく、いずれ簒奪に向かうと知っているなら、曹操のために謀るなら簒奪の手伝いを積極的に行ったとしか思えません。程昱、賈詡、郭嘉などの曹操配下の智謀の士は知っていてそうしたのでしょう。
荀彧はやっぱり道を誤ったとしか思えません。
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