2013年8月28日水曜日

三国志、 魏書;荀彧荀攸賈詡伝第十 荀彧伝(2)



もし、漢室を補佐し再興するのが荀彧の目的だったならば、彼は道を誤ったとしか言えないと思います。荀彧は曹操を見損じていたのです。

曹操の父親が官を離れて故郷の譙(ショウ)という所にいましたが、董卓の乱で瑯邪に避難して、陶謙に殺されました。そこで曹操は興平元年(194)に復讐戦をすることにします。荀彧と程昱に鄄城を守備させ陶謙を征伐します。五城を陥落させ、東海というところまで進みます。帰りに郯(タン)を通過し、そこで曹豹(ソウホウ)と劉備を撃破し、襄賁(ジョウホン)を攻略しました。そこまではよいのですが、「所過多所殘戮」つまり通過したところで多数を虐殺した、とあるのです。無辜の民を虐殺したのです。こんなことをする人について荀彧は見方を変えることはなかったのだろうか、と不思議に思います。

建安元年(196)に曹操は洛陽にあった献帝を自分の根拠地である許に迎えることを考えます。
「諸將或疑。荀彧程昱勸之」
とあります。今鷹さん、井波さんの訳では
“諸将のうちには疑念を抱くものもあった。荀彧と程昱がが勧めたので
です。

袁紹の側にも似たことが起きていました。
すなわち、袁紹の配下にも沮授のように帝を根拠地に迎え入れ、天子を差し挟んで天下に号令することを勧める者がいました。沮授は多分、簒奪をしてよい、という意味で主君に勧めたのでしょう。
しかし郭図、淳于瓊らは天子を奉戴することはその行動を掣肘される、として反対しました。天子を呼べば他の人間もついて来るし、天子を利用しようと考えていろいろ吹き込む人も出るでしょう。
また、袁紹に天下を取らせよう、というのならば郭図や淳于瓊はむしろまっとうな考え方と思います。天子を差し挟んで天下に号令はするのは、正当性を主張できるので楽かも知れないですが、一旦そういうことをしたら、さんざん利用したあと、これにとって代わろうとするのは簒奪者の非難を浴びることになります。

曹操の場合、程昱が勧めたのは沮授の考えに似ていると思います。そして一方荀彧は、純粋に漢室を再興させたいという思いを曹操に託して勧めたのだと思います。

袁紹と官渡で対峙した時、曹操は糧食が乏しくなったので許に戻るべきか、と荀彧に相談の手紙を出しています。
それに対する荀彧の返事は天下分け目の戦で、引き上げるな、でした。その手紙の末尾は、
「夫以公之神武明哲而輔以大順、何向而不濟!」
です。今鷹さん、井波さんの訳では
“公は神のごとき勇武とすばらしい英知があるうえに、それを支えるものとして、天子を奉戴しているという大きな正義をおもちです。どうして向かうところ成功しないことがありましょう”
です。

当時の状況は天子をいただき、一応は漢室を盛り立てて、正当性を主張する曹操と、曹操の正当性を認めず言う事を聞かない、割拠する群雄の時代です。荀彧は単なる名目でない曹操の「大順」を信じていたのでしょう。
それが彼の志に反するものだとすれば誰につくべきだったのでしょうか。




歴史ランキング


にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

0 件のコメント:

コメントを投稿