2013年8月9日金曜日

三国志、三国志演義 孔融(3)



孔融が身の破滅を招いた原因についての結論は孔融の勘違いと言わざるを得ません。

魏書 崔毛徐何邴鮑司馬伝 第十二の崔琰伝に
「初、太祖性忌。有所不堪者、魯國孔融、南陽許攸、婁圭。皆以恃舊不虔、見誅。」
井波さん、今鷹さんの訳では、
“そのかみ、太祖(曹操のことです。)は嫌悪の情が強い性格で、我慢できない相手がいた。魯国の孔融、南陽の許攸・婁圭はみな、昔の関係をたのんで不遜な態度をとったことから処刑された。”
となります。

孔融の振る舞いについて、たとえば次のような話があります。
袁張涼国田王邴管伝 第十一の王脩伝の註の中に、孔融が処刑されたあとの記述として「魏略」の文が引かれています。
「脂習……與少府孔融親善。太祖爲司空、威德日盛、而融故以舊意、書 疏倨傲。習常責融、欲令改節、融不從。」
訳によれば、
“脂習は……少府の孔融と親交があった。太祖が司空となり、威光恩徳が日増しに盛大となって行くなかにあって、孔融はことさら以前(同等であったとき)の感情をもちつづけ、(太祖への)書簡は高慢そのものであった。脂習はいつも孔融をとがめて、態度を改めさせようとしたが、孔融は従わなかった。”
となっています。

孔融は昔の役職は曹操と同等でした。しかし曹操の方はどんどん出世をして、彼の上役になってしまい、実は生殺与奪の権を握ってしまいました。
孔融はそれを認める気はなくて殊更偉そうな態度をとり続けたわけです。

孔融は禰衡を推薦したことはすでに書きましたが、その禰衡は曹操にたいして大変失礼な振る舞いをします。危険を避けようと思うなら、当時のやり方なら孔融は禰衡を斬って曹操に詫びるべきでした。

そのような努力をしない孔融は、自分の身の安全について大変な見込み違いをしていたことになります。自分が崖っぷちにいることに気付かなかったのです。曹操はすっかり腹を立て、殺すための口実どうしようか考えていただけでした。

そしてついに禰衡との付き合い、愚にもつかない議論などが、死罪にする口実に使われます。
曹操は路粋という者に孔融の弾劾文を上奏させました。路粋は孔融を、九卿でありながら朝廷の儀礼に従わなかったとか、無位無官の禰衡と勝手な振る舞いをし、お互い褒めあっていたとか、いろいろ言辞を費やして断罪しています。(蛇足ですが当時の人は路粋の上奏文を見て才能に関心し、筆力に恐れないものはなかったそうです。)

ではなぜそんな態度をとり続けて平気と思っていたのでしょう。
孔融は当時の高位高官、著名な学者と親しく話し、書簡のやりとりをして、自分のことを当代の名士と思っていたはずです。曹操といえども軽々しく自分(孔融)のような名士を殺したりすれば、評判を落としてしまう危険があるから手を出せないだろうと考えていた、と思わざるを得ません。

しかし、上の、袁張涼国田王邴管伝 第十一の王脩伝の註の中の「魏略」の続きには、孔融と親交のあったものもいたが、誰も思い切って孔融の遺体をひきとり弔おうとはしなかった、という内容の記述が続きます。
たった一人脂習が哭礼をしたそうです。

孔融が突っ張って曹操に偉そうなことを言っているのを危険だと脂習が注意したのですから、他の人も孔融のこうした振る舞いを知っていたことでしょう。
孔融は、他の人が自分が曹操に偉そうな態度をとっていることを知っている事が得意だったのかもしれません。しかし、そんなことでは孔融一族が斬られても、他の人は孔融はやりすぎだった、と考えて終わりです。

孔融は自分には価値があると思っていたのです。曹操は自分の価値を認めようが認めまいが、すくなくも孔融を殺したりすることは世間が許さないと思っていたはずです。
では世間の人はどうだったでしょう。
みんなは曹操を非難していません。黙っていました。曹操に叛旗を翻すどころか反発する訳でもなく、忘れて行きました。
正史を見る限り、彼を殺すことで、曹操は何も失っていません。彼の死は曹操に毛の先ほどの影響も与えませんでした。当代一流の文化人の筈だった孔融が信じていた自分の価値は幻想にすぎなかったのです。




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